ホラーと言ふモノ超蜜柑
1/始めに恐怖とは何ぞや 皆さんはホラーというものを御存知だろうか? 「ホラー」という単語を出されて、それぞれに様々な想像をしただろうが、皆さんの胸中にはある共通の認識が生まれている筈である。 それは即ち恐怖である。 そう、ホラーとは怖いものである。もっと端的に理解して頂く為に、逢えて辞書的な定義に頼ってみるならば『怪奇な趣向で恐怖を感じさせることを狙った娯楽作品。「―映画」(広辞苑)』である。一般的なホラーの定義はこのようになっている。この中で「〜恐怖を感じさせる〜」という行があるわけだが、今度は恐怖とは何だろうという疑問が湧いてくる。そこで今度は恐怖という言葉の意味を辞書に従って羅列してみよう。『恐ろしく感ずること。また、その感じ。「―におののく」(広辞苑)』となる。何だか逆によく分からなくなってしまった。 そこで恐怖という概念をできるだけ辞書に頼らずに解説すると、以下のように定義付けがされているようである。「恐怖とは人間が本来持っている、原始的な感情の一つである。これは主に生命を守る上で必要とされ、身の危険を認識した際に、逃走、防御、混乱などの行動を誘引するものである。これらは精神的に不快感を伴い、身体は緊張状態を余儀なくされ、時には硬直、弛緩などの症状が見られる。しかし脳は逆に興奮状態に置かれる」と言われている。 医学的な見地に立って説明すると、恐怖とは脳にある恐怖の中枢にある偏桃体と呼ばれる部位から、五感のシグナルが腎臓上部の副腎に送られる。それによってアドレナリンとコルチゾルというホルモンの分泌が促される現象である。これによって瞳孔が拡大したり、皮膚から血液が引き、青ざめたり、汗腺が活発化して汗が吹き出したりするという、恐怖特有の現象が起こるのである。 これらから恐怖とは不快を伴う精神状態を誘引し、肉体に対しては様々な弊害を引き起こす状態にあると言える。これらは我々人間にとっては非常に苦痛であり、できることならばなるべく関わり合いになりたくないのが現状だ。 しかし、現実にはそうした気持ちとは裏腹に逆行した事態が起こっている。日本のみならず世界中で恐怖を誘発するような娯楽が、様々なメディアを通して誕生している。そしてそれは決して駆逐されることも弾圧されることもなく、逆に人々に受け容れられている。日本の映画界においても『リング』(一九九八)は爆発的なヒットを記録したし、続く『らせん』(一九九八)、『リング2』(一九九九)を皮切りにホラー作品が数多く作成され、大々的に公開された。人々は恐怖という概念から逃げようとするどころか、むしろ望んでその恐怖に身を投じているようにも思われる。 さて、ここで新たな疑問として提示されるのは、何故人はこれらのものを避けようとしないのか? 恐怖や危険というものは本来は回避すべきものであり、未知の事柄に対する警戒である。感じないならば感じない方が良いに決まっている。では何故、それらを求めてしまうのか。 これは様々な要因が考えられるが、代表的な考えとして挙げられるものは以下のものである。 @恐怖を乗り越えた時に覚える、生きている実感 A高度な感情を有する人間特有の性質=何らかの刺激を求める B未知への探求心=好奇心 @Aはそれぞれ独立した理由と言うよりは、セットで一つのように思われる。経験ある方もいると思われるが、人間は何もしないでいる時は何だか味気ないものである。退屈である以上に何もしないことに対する虚しさが募るものだ。これが酷くなるとやがて「生きるって何だろう」とか「生きている気がしない」といった贅沢な悩みが生まれる。人間は実は適度に何らかの緊張状態に置かれた方が健全なのだ。そして恐怖とはまさにその緊張状態なのである。 そしてこの緊張状態が人間の刺激に繋がるのだ。緊張状態にある時、人は必死である。ストレスは溜まり、リラックスなどできない。早くこの瞬間が終わってほしいと思うだろうが、実際に終わってみればその開放感たるや、言葉では言い表せないほどの爽快さであろう。恐らく、これが生きている実感へと繋がるのだろう。また、中には純粋にこの緊張状態を楽しむ人もいるだろう。緊張が促す向上心、それに伴う充実感が心地良いという感覚だろう。よって、人々が恐怖を求めるという理由にこの二つは挙げられるだろう。 またもう一つは好奇心、いわゆる怖い物見たさという事が考えられる。人間は謎があると知りたくなってしまう生き物だ。怖いものがある、何が怖い、どこが怖い、どうして怖いなど様々な事を考えてしまう。 そして段々と怖い理由を知りたくなり、結局は見てしまう。それが自分にとってストレスを与えると分かっていても、その原因を知りたいという欲求の方が勝ってしまう。こうして本来は見たくないはずなのだが踏み込んでしまうのだ。 さて、今回の考察ではテーマをホラーであるが、その中でも人を恐怖させることを主眼に置いたホラー=ファンダメンタルなホラーについて話をしていく。そしてもう一つ限定させておきたい事項がある。今回は「ホラー映画」に限定して考えるということだ。これは私が映画ほどには他の媒体にそれほど精通していないことと、何より娯楽でありメディアである媒体の中で映画が最も人の恐怖を誘発しやすいと考えているからだ。中には小説にも怖いものは幾らでもある、ラジオなどの音響に限定した媒体にもホラーはある、という意見はあると思う。その事については「3/困難なジャンル、ホラーその1」の項で語りたいと思う。とにかく、これからはホラー映画中心に話を進めていくので、断りがない場合はその前提で読むことをお願いしたい。 2/ホラー、その歴史 ホラー映画の歴史は意外に古い。映画そのものの歴史は一八九五年二月十三日、オーギュストとルイのリュミエール兄弟がカメラと映写機と現像機を組み合わせたシネマトグラフの特許を取得したところから始まるとされている。ホラー映画はその二十四年後、一九一九年に初めて制作された。記念すべきホラー映画第一作は『カリガリ博士』と呼ばれるもので、ドイツ表現主義が生み出した作品である。 内容はカリガリ博士という人物がある街の祭で眠り男ツェザーレという出し物をしていたが、博士は夜になると眠り男を操り、町の人々を殺していた、というようなものだが、作中で使われる見せ物小屋、精神病院など既にホラー映画の原型と呼べる重要な要素が多く含まれていた。 その後も『吸血鬼ノスフェラトゥ(二一)』や有名な『オペラ座の怪人(二五)』、更に年月が進むと『魔神ドラキュラ(三一)』、『フランケンシュタイン(三一)』、『ジキル博士とハイド氏(三一)』などの怪物的要素(実際の怪物だけでなく、魔術などの超自然的な要素も含まれていた)の強い作品が数多く生み出された。この頃のホラーと言えば、こうした怪物が人間を脅かすものが主であった。 こうしたモンスターが主流を占めたホラー映画史に燦然と名を残すのがジョージ・A・ロメロであろう。彼は知る人ぞ知るゾンビ映画の大御所であるが、その処女作『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド(六八)』で大成功を収め、その後もゾンビ映画を生み出すことになる。彼は十年おきぐらいにゾンビ映画を発表しているが、最近では旧来のゾンビのホラー的要素は失われ、コメディ要素が高まっていると評されるのが悔やまれる。これはロメロ自身の問題というよりも、シリーズを重ねる毎にとんでもない方向に進化してしまう(ロメロ作品以外のゾンビ映画では顕著に見ることができる)のが要因だと言えよう。 また、この頃からホラーを担う者にも変化が表れてきた。これまでの伝承に登場するような直接的な怪物達ではなく、『エクソシスト(七三)』に見られるような霊的存在――悪魔ではあるが悪魔自体は姿を見せない――や理解不可能な怪人による凶行『悪魔のいけにえ(七四)』などのオカルト、スプラッタ方面にも分化していくようになる。 しかし、かつてのモンスターホラーが決して消えたわけではなく、そちらも様々な亜流を生み出しながらより細分化されていくことになる。 さて、ここまでは外国作品の話であったが、我が国日本はどうだろうか。日本では一九四九年『真釋四谷怪談』が恐らく発祥であろう。四谷怪談系はその後も多く作られた。これが七十年代に入ると欧米色の強い物が施策されるようになる。『血を吸う』シリーズ、『HOUSE(七七)』などが挙げられる。更に八十年代にはスプラッタも流入した。九十年代になると、日本に心霊ブームが起こり、J(ジャパニーズ)ホラーの世界もそれに合わせて心霊物が数多く制作されるようになる。『ほんとうにあった怖い話(九一)』、『学校の階段(九五)』、『女優霊(九六)』などである。その後もJホラーにおける心霊ブームは収まることはなく、清水崇監督の制作した『呪怨(〇〇)』は遂にハリウッドでリメイクまでされた。その後も『着信アリ(〇四)』などが発表され、これからもより多くのホラー映画が作られていくことになるだろう。 3/困難なジャンル、ホラーその1 では、こうしたホラーに必要な要素とは何だろうか。恐怖を与えるということは既に言うまでも無いが、どのようにして恐怖を与えるか、それが重要である。そしてそれこそがホラーに必要な要素であり、極論を言ってしまえばそれ以外のものは必要ないと言っても良い。 ホラーを語る前に、他のジャンルではどうだろうか。 他のジャンル――フィクション、ノンフィクションは勿論の事、ファンタジー、歴史物、戦争物、恋愛物、ドキュメンタリーと枚挙に暇がないが――であれば、主体はあるにせよ、様々な要素が物語を彩る為に必要になるだろう。登場人物、物語の構成、世界観、背景などの映像効果、豪華な音響効果。これらが場面によっては感動を、場面によって悲観を、といった具合に多種多様な目的に向かって働かなくてはならない。 そう、食事に例えるならば豪華なフルコースもしくは上品な懐石料理などが当てはまるだろう。 さて、ではホラーはどうか。ホラーがこれらの要素――人物、構成、世界観、効果等々――によって引き立てられるべきは何か。 恐怖、その一点である。 それ以外には存在価値すら薄い。 言ってしまえば男らしい一品料理である。付け合わせもなく、それだけで勝負する、愚鈍なまでの潔さである。ホラーというジャンルは詳しく言及しない人ですら「要は怖ければホラーだ」と言わしめるほど、怖いという一点が重要なのだ。逆に言えば、怖くなければホラーとしての前提は完全に崩壊する。 さてここで話は大きく逸脱し、前々章で述べた「何故ホラーは映画の方が有効なのか」について語りたいと思う。 我々が恐怖を感じるのはどんな時か。様々な状況が思い付くが、大体共通することは、自分にとって恐ろしい想像が掻き立てられた時である。 幽霊が嫌いな人なら幽霊を想像してしまった時、暗闇が怖い人は暗闇を想像してしまった時などである。 では、どんな時にそれが掻き立てられるのか。漠然と想像してしまう時はあるが、より強く感じる時は、何かを見た時、何かを聞いた時――そう、五感に働きかけられた時である。五感――これが実に重要である。我々は普段の世界を全てこの五感に委ねている。このため、五感が不快感や嫌悪感を感じたものは、恐ろしいものになるのだ。 例えばスプラッタ。あれは人間が血飛沫を上げ、肉片を飛ばすというグロテスクなシーンによって視覚的に生理的嫌悪感、もしくは想像による痛覚の想像に訴える恐怖なのだ。その他、不気味なBGMや呻き声、悲鳴、物音なとは聴覚に左右される。 ここまででお分かり頂けただろう。小説、漫画、映画、ラジオなどの媒体で最も多く五感が活かされているのが映画なのだ。恐怖を感ずる部分が他のジャンルより直接的で多いというのが、強味なのだ。 小説は挿絵などを除いては視覚効果は皆無に等しい。不気味な文章の書き方というものは確かにあるが、それにしてもダイレクトな視覚表現よりは弱い。むしろ、やり方次第では映画でも漫画でも真似はできる。例えば不気味な文字の羅列など、怪奇小説では実に有効な表現方法だが漫画でも映画でもその真似は容易である。 また小説、漫画には音がない。何かが落ちる音、ドアや窓を引っ掻く音、ぺたぺたという足音などなど。様々な恐怖音が想像のみに託されるのである。想像の方が怖い、と思うかも知れない。しかし、音を想像することの最大の欠点は、そこに驚きが無いことである。それは決して不意にどこかから聞こえてくる音ではない。あなたが想像し、あなたが望んだタイミングであなたの中から発せられた音に過ぎない。それによってあなたは恐怖に対して無意識に準備が整っているのだ。何が来ても大丈夫、という意識が芽生えているはずだ。 この点ではラジオはかなり有効だろう。だがラジオなどは逆に視角情報を説明しなければならず、テンポが悪くなる。(ものによってはかなり効果を上げるが、それは映画でも代用は効く) 更に言えば、読者の自発的行為に依存する小説や漫画に比べ、映画は制作者側が物語の進行速度を支配しやすい。つまり、映画は小説や漫画、ラジオの良いとこ取りができ、表現の幅がこれらに比べて広いのだ。勿論、これは優れた表現方法を用いることが絶対必要という前提はある。駄目なホラーというものは、媒体の区別無く駄目なものである。 因みに残りの五感、嗅覚、味覚、より直接的な触覚はこの二者に勝るとも劣らない効果を発揮するが、これらの媒体では残念ながら不可能である。ごくごく一部の映画館などではこうした効果を盛り込む(大量のネズミが飛び出すシーンで観客席の足下で装置を使ってその感触を表現したり)こともしたが、基本的には無理な注文である。そこまで楽しみたい方はもはや出来の良いお化け屋敷に行くか、直接ホラースポットへ言ってもらうより他にない。 さて、これで五感の重要性をご理解頂けただろう。そこで話を戻し、何故ホラーだけが他のジャンルに比べて適切な表現が難しいのか、という点だが、これは一言で済む。 その作品に取り巻くあらゆる全てのものがホラーに結び付かねばならないからだ。それはワンシーンの例外もなく、一音の例外もなく、登場人物の表情一片にも例外なく、全てが恐怖喚起の為の材料にならねばならないからだ。他のジャンルであれば息抜きの為の間や雰囲気を変える為の様々な気分転換などが行えるが、ホラーにはそれがない。ホラーは基本的に一度雰囲気作りに失敗すると二度と挽回できないのだ。 これはシリアスと呼ばれる構成にも同じ事が言える。ストイックにシリアスな展開を構築しようとすると、息抜きの遊びの部分が非常に限定されてしまうのだ。何故なら、下手にノリの軽い場面を作ろうものならたちまちその雰囲気に呑まれ、修正が利かなくなる恐れがあるからだ。 ここでホラーの序盤、中盤、終盤に分けて、遊びの入る余地を検討したいと思う。 まずは序盤、ここはまだ相対的な意味で雰囲気の明るい場面が多いだろう。しかし、そうしたまだ幸福なシーンは全てこれから起こる悲劇の為の生け贄なのである。この先の悲劇をより悲惨なものにする為に、序盤は存在するのである。ここでコメディ色を強めてしまうと、事によってはそのイメージを払拭できないまま話が進んでしまうことになる。そうすると折角の恐怖の場面もそれを引きずってしまうことになりかねない。明るい場面ではあるが、静かに潜行しなければならない。決して羽目を外して良い場面ではない。 何作か見ているとお分かりになるが、ホラー作品の序盤が明るいシーンの場合、そうは思わないものだ。映像の色彩、流れる音楽、良い作品は確かにそれ自体は明るいはずなのに、何故か暗く感じる。息が詰まるようなのだ。幸せそうに見えるのに、何故こんなにも不安が掻き立てられるのだろう、そう思わされるのが良いホラーの条件である。決して無駄にポップなノリではいけないのだ。これはホラーなのだ、恐ろしい映画なのだ、という意識を我々に植え付けなくてはいけないのだ。 中盤。物語の性格にもよるが、大別すれば二つのタイプに分かれる。怒濤のように悲劇が襲いかかり、恐怖の畳み掛けをしてくるものと、外堀を埋めるようにしてじわじわと恐怖が忍び寄ってくる、いわゆる布石型の二つである。個人的には前者の方が好き(後者は失敗すると非常に退屈な設定説明になるか、何も起こらないダラダラとしたシーンになる。そして多くの作品がそうした失敗をする)なのだが、ここでも勿論遊びなど入れてはいけない。 この辺りに必要なのは、事態の異常性に気付いた登場人物達が、不安と絶望に押し潰されていきそうになる恐怖感である。周りが次々と変死していき、次は自分だと悟る。悲惨な死に方が自分の未来に重なり、恐怖に取り乱す、そんな場面だ。そしてその気持ちを我々にも伝えねばならない。共有してもらわねばならないのだ。それに失敗するとこの先は対岸の火事、心底怖がってはもらえない。無論、コメディ的要素など以ての外、その他の要素(過度の恋愛や探偵的推理など)もあまり要らない。ここで雰囲気が壊れるとほとんどが修復不可能となる。 終盤。いよいよ恐怖が具現化して登場人物に、そして我々に襲いかかってくる場面だ。ここでは今まで溜めに溜めた全てのホラー要素を味方に付けて、全力で我々を怖がらせなければならない。ここで留意したいのは、序盤、中盤で上手い効果が上げられないと、幾ら頑張っても肝心のホラーシーンは全く怖くならないということだ。要するに萎えてしまった場合だ。駄目なホラーの典型は、だらだらとつまらない、怖くもないシーンを延々と数十分流し、最後の十分に申し訳程度の恐怖シーンを入れる類のものだ。怖いとかそういった以前に飽きてしまい、興味を失ってしまう。こちらは盛り上がってない上に、大抵は何か別の事をしているか、したいと思っている状態なので、何を見せられても興醒めである。これは序盤、中盤がなっていないということになる。 さて、そのハードルを越えて終盤に辿り着いた場合、安泰なのだろうか? 答えはノーだ。最後の恐怖シーンをびしっと決めなければ、どれだけ過程が良かろうが全く無意味だ。まぁ、これについては他のジャンルも同じだろうが。とは言えホラーの場合、扱うものが恐怖という根元的な部分の為、ごまかしが利かない。主観がつまらないと決めたら、理論的にどう優れていようと評価はゼロである。後々の弁解も利かない。 よって終盤にこけるタイプは、最後の演出の詰めが甘かったというもの が多い。 途中までの失敗、最後での失敗。どちらの失敗もホラーとしては失格の烙印が押される。他ジャンルでよく見られがちな「〜までは良かった」「〜の点は評価できる」といった批評は頂けない。大概が「ホラーとして駄目」となる。ホラーは物語的な面白さを追求したならば、決して優秀とは言えないジャンルだ。何故なら他ジャンルが用いる様々な盛り上がりを犠牲にしてまで、恐怖シーンの為に時間を注ぎ込んでいるのだから、ホラー以外を見れば明らかに負けるに決まっている。(中には物語として面白く、何でそもそもホラーとして作ったんだろう、と首を傾げたくなるような作品もあるが) ホラーにとって「ホラーとして駄目」は完全敗北である。例え他の部分で評価を得たとしても、敗北である。料理で言えば「料理は最低だけど、この器は見事なものだね」と言われるようなものだ。全く意味がない賛辞である。 こうした現象は全て他ジャンルとホラーの要素の役割の違いから発生したものだ。他のジャンルではそれぞれの要素は物語全体の引き立て役であると同時にそれ自体が主役でもあるのだ。だが、ホラーの場合、要素は単なる部品に過ぎない。先に言った懐石料理やフルコースと一品料理の差である。前者は多少どこかがまずくても他がカバーしてやれば全体としての評価は維持できる。だが、後者はそもそもどれか一つが噛み合わないと不味くてそれ自体を食ってられなくなる。一つの失敗が全てを台無しにする。そしてのその度合いが他のジャンルに比べて圧倒的に強い、それがホラーなのである。 よって良いホラーと巡り会うことは相当に困難を極める。 4/困難なジャンル、ホラーその2 前章ではホラーがいかにデリケートな条件下でのみ成立しうるかと言うことの概略に触れた。今度はもう少し掘り下げて語ってみたいと思う。具体的には、もしあなたがホラーを作るとしたらどうすべきか、という点に着目したい。ホラーを構成するにあたって、外してはいけない基本というものがある。まずこれらを守れなければ、どれだけ素晴らしい演出を行っても成功など有り得ない。 @展開的リアリティとルール A五感の駆使 B理不尽さ @Aの繋がりは何だか分かる気はするが、Bは矛盾しないだろうか、そう思う人もいるだろう。その為にこれから説明をしたいと思う。 まず@。リアリティとは重要な要素である。どんな物語にもある程度は必要な要素である。故に雰囲気を重視するホラーにとっても非常に重要な要素となる。最初に断言したいのは、ホラーはリアリティがないと失敗する。 ここで誤解してほしくないのは、ホラーの要因として登場する怪物や幽霊、怪人などに対して「そんな奴いねぇよ!」と突っ込むことではない。むしろ彼らはBにとって必要な存在であり、詳しくはそちらで説明する。これは主に被害者――つまり主人公達側に必要なことである。例えば何かに襲われるホラーだとして、主人公達が常識外に強かったらどうだろう? 一般人とされている彼らが襲ってくる怪人と素手で渡り合ったり、互角にチャンバラなどやったらどうだろう。それはもはやホラーではない、ただのアクションだ。この例として挙げるならば『バイオハザードU アポカリプス』だろう。まぁこれ自体、前作とは違い、初めからホラー要素を捨て去っているような気がするので、悪いわけではないが。これは主人公が凄まじい身体能力と射撃の腕でゾンビや追跡者を薙ぎ払っていく姿が実に壮観だが、他の人間がゾンビに襲われても何だか怖くない。取り敢えず主人公が生きてて敵に勝てるから他はいいやという気持ちになってきてしまう。実際、作中での描かれ方もあまり丁寧ではなかったように思える。 要するに、まず主人公達が一般人なら一般人並みの実力にしなければならない。アクション映画のように大活躍させる必要は全くないし、むしろいらない。相手がこちらにとって脅威でなくなった瞬間、恐怖は半減どころか消えてなくなる。相手を打ち負かしたいなら別のジャンルでやった方が無難だろう。 次に、これは敵の側にも言えることだが、ある一定のルールを外してはいけない、ということだ。ある一定のルールとは何か、それは開始五分で体感的に理解できるだろう。できなければ駄作の覚悟をしておいた方が良い。ルールとは開始直後に雰囲気的に「こういう設定なのだ」と朧気に感じ取れるものである。時代はいつか、場所はどこか、主人公は何者か等々。そしてその中には「どこまでやったら許されるか」というものも含まれる。 具体的にはどういうことか。例えば怪人にいきなり襲われ、仲間が次々と凄惨なやり方で殺されていったとしよう。誰も怪人には敵わない、逃げ惑うしかない、反撃の機会すらない。相手がそれぐらい凶悪で恐ろしい存在だとしよう。しかし、それを強調する為にやりすぎてしまったらどうだろうか。斧やチェーンソー、この辺りはかの有名なジェイソンも使っており、まだ問題はないだろう。(とは言え、ジェイソン自体がカップルのベッドシーンばかりに乱入したり、ロケットで宇宙まで飛んでいったりとコメディ路線を爆走中だが)だが、ここで考えてみてほしい。いくら怪人をとんでもない存在にする為とは言え、肩にロケットランチャーやランボーばりの全身重火器装備だったりだとしたら――恐らく大爆笑だろう。登場したその瞬間から笑えるネタキャラとして定着し、もう二度と恐怖の対象として見てもらえない。こうなってはホラーもへったくれもない、B級コメディとしては成功するかも知れないが、ホラーとしての成功など有り得ない。このようにやりすぎてはいけない、がしかし足りなくても怖さがない。匙加減が難しいのである。 またこれは物語のラストにも言えることである。ホラーの中には最後には恐怖の要因を取り除いて(倒して)一応のハッピーエンド、という場合もあるが、それに関してもルールやリアリティは大事である。まず御都合主義はいけない。主人公が追い詰められた先でたまたま怪人が持っていた武器を掲げたらたまたまそれに雷が落ちた。主人公が反撃に転じた途端にいきなり弱くなったとか、こちら側にとってあまりにも都合の良い展開は御法度である。まぁ、こんな事はどんなジャンルでも御法度だが。 さてAについてだが、これは前章で長々と語ったので大体割愛したいところだが、一点だけこれに関して補足しておくことがある。五感を十二分に活かす為の方法、それが間である。 間とはタイミングと考えてもらって構わない。実はこのタイミングが非常に重要なのである。どんなジャンルであってもタイミングとは重要だが、ホラーの場合は他とは少し違う。他ジャンルは狙い澄ましたように視聴者の望むタイミングで効果を入れねばならないが、ホラーは逆である。視聴者の望まないタイミングで恐怖表現を叩き付けてやらねばならない。これは視聴者に対して恐怖に対する心の準備をさせない為の手段である。方法は二つ、相手が「そろそろ来るぞ」と思う前に機先を制して畳み掛ける場合と、相手にわざと構えさせておいてそれが解けた時に不意に発する場合である。どちらも重要なのはタイミングを外すことである。 最後はBである。理不尽さとある。理不尽さとは何だろう。これは展開や敵に対して使わなければならない要素である。まずは展開に関してであるが、理不尽なくらい主人公達に絶望を植え付けるようなものが望ましい。例えば、かの『リング』においては呪いのビデオをそれとなく見てしまっただけで殺されてしまう。一切の説明はない。何もしなければ間違いなく死んでしまう。実に理不尽である。だがそれが良いのである。『呪怨』に至っては呪いの家の敷居を跨いだだけで取り殺されてしまう。それが郵便配達員だろうと何だろうと、である。実に理不尽だ。犠牲者は何故、と叫びたいだろう。それに対して返ってくる答えは「ビデオを見たから」「家に入ったから」である。そんな馬鹿な、と言いたいだろう。尋常な展開ではない。だが、それが良いのである。 人間はそれに対して説明ができるようになると、安心感が生まれてしまう。こうした爽快な気分はホラーにはよろしくない。何だかよく分からない、分からないがとにかく悲惨な結果だけは分かる。その違和感、もどかしさが我々に対して嫌悪感や不快感を与えてくれる。本来であれば御免被りたいストレスも、ホラーには必要不可欠なものだからだ。 我々の常識が一切通じないからこそ、我々はその訳の分からない何かに怯えることができるのだ。例えるなら、マジックは種が分からないから驚けるし楽しいのだ。マジックの種が全部分かってしまっていたら、それほど面白くなくないはずだ。 次は敵についてである。彼らは実に理不尽でなければ務まらない。その多くが理性的な会話など望むべくもなく、半ば本能的に襲いかかってくる。そこには一切の交渉も慈悲も弁解もなく、ただ厳然たる死が待ち構えているだけである。だが、それが良い。これがもしも理性的だったらどうだろうか。彼らが自ら進んで「やぁ、君達。僕は今からこれこれの理由で君たちを殺すよ」などと言ったら何だか怖くない。サイコ系だとそうした展開はあるが、それにしても理由の部分は大概意味不明である。とにかく我々が論理的に納得してはいけないのである。我々が理解できては失格なのである。とにかく謎の存在、謎の思考、謎の力といった具合に、何かが分からない状態であることが望ましい。 5/まとめ ホラーといふもの さて、今までホラーの要素について色々と触れたが、我々見る側からすればホラーとは娯楽作品である。今回はファンダメンタルなホラーを主に置いたが、ホラーのジャンルはそれだけではない。コミカルな部分が見える物や人間愛や友情などのテーマを描いた作品も多い。 しかし、そうした作品は他のジャンルでも見られる物である。恐怖そのものに重点を置いた作品というのは、ホラー以外にはなかなか難しい。今までホラーを嫌煙していた方も、何かの機に刺激を求めてホラーを見るのも良いのではないだろうか。 参考文献 『ホラー映画の魅力』 著・小中千明 『ホラー・ムービー 究極大鑑』 監修・地引雄一 国際ホラー研究所 |