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雨の日の旅人

空色水母

雨の日は眠くなる。
雨の降る音に耳を傾けていると、目を開けたままでも夢を見ることがある。
本当を言うと、それが夢なのかわたしには分からない。例えばわたしは、雨の中を泳ぐ魚を見る。その魚は初夏の鮮やかな緑の間を縫って、ひらひらと透明で長いひれを動かしながらわたしの目の前を悠々と通り過ぎる。わたしは、いつの間にか、その魚と一緒に雨の中を泳いでいる。上に行きたい。わたしは空を見上げる。鈍く黄色を混ぜたような灰色の雲。今日は流れが速い。わたしは、自分の体を冷たい水が押し上げるのを感じる。急流がわたしを運び去るのを感じる。上の雲のもっと上に太陽があるのを感じる……。

『ミコト』

ふ、と音が戻る。目の前にはわたしを覗き込む顔。公園のベンチ。雨の匂い。
「ねえ、おねえさん、こんなところで何してるの?」
首を傾げた仕草に、肩の上で切り揃えられた髪が揺れる。イチゴの甘い匂いがわたしの鼻孔をくすぐる。
「だいじょうぶ? 具合でも悪い?」
わたしは焦点の定まらない目でぼうっと前に立つ少女の瞳の色を見る。そうすると、思いのほか少女の後ろの緑が目の前に迫ってくるようだった。
「おねえさん?」
少女の不審そうな声に、初めてわたしは何か喋らなければいけないことに気付く。
「うん、ごめんね、大丈夫。……少し、夢を見ていただけだから」
水の中なら、雨の中なら喋らなくて済むのに。喋らなくても分かり合えるのに。半分眠った頭でそんなことを思う。
「夢? おねえさん、起きてたよ?」
「……そうだね」
そう、子供の頃は世界はもっとはっきりしたものだと思っていた。全てがもっと鮮やかで、くっきりと鮮明で、大人になったら全てが分かると思っていたんだ。それなのに。
それなのに、自分が起きているのかさえ、こんなにも曖昧。
わたしは空を見上げた。
いっぱいの雨粒を受ける木の枝に青々と茂った葉っぱの、その上の空を見上げる。雨雲のその上に、果たして太陽はまだいるのだろうか? もうとっくの昔にどこか、別のもっと良いところに行ってしまったのではないのか?
「ねえねえ、おねえさんはこんなところで何してるの?」
目の前の少女は傘をくるくる回している。赤い傘。接線方向に放たれる雨の雫。
わたしは傘を持っていない。でも、雨の中でも息はできるから。
「……わたしはね、旅をしているの。今は、夢を見ていたんだけどね」
少女は不思議そうにわたしを見る。わたしは突然、目の前のこの少女が愛しくてたまらなくなった。まだ、何も知らない少女。それは何と有り難い存在なのだろう。
「お話聞きたい? 隣に座って。……それから、わたしにポケットの中のいちごみるくを一つ頂戴?」
わたしの言葉に少女は一瞬きょとんとしたあと、にかっと笑った。
少女の前歯は欠けていた。



わたしの父親はよく山に登っていた。週末はいつも家族で山に出掛けた。わたしが高校生にもなると家族のその習慣はなくなってしまったけれど、父親は相変わらず毎週のように山に登っていた。
わたしはずっと父親は山が好きなのだと思っていた。だから、山に登るのだと。でもそれは違った。気付いたのは最近だ。
……彼が山に登るのは人間のいないところに行きたかった、ただそれだけの理由だったのだ。



「雨の日はどこへだって行ける気がする」
わたしは隣に座る少女に語りかける。
「だからわたしは、雨が降っている日は旅人になるんだよ」
少女はベンチに腰掛け、足をぶらぶらさせている。相変わらず、イチゴの甘い香りをさせながら。切り揃えられた髪がさらりと俯いた少女の顔を隠す。
少女はきっと笑っているのだ。髪に隠れたその口元にはきっと微笑が湛えられているのだ。わたしはまた夢を見る。目を開けたまま見る夢。
「う〜ん」
少女はゆっくりと顔を上げた。
「よくわかんないや。でも、まあは雨の日だいすきだよ。こんなによごしてって、いつもママにおこられるんだけどね」
そう言って、少女はきゃらきゃらと笑った。わたしは曖昧なまま微笑む。
「おねえさんも、雨の日すき?」
少女の二つの黒い瞳にわたしが映る。
「う〜ん、よく分かんない、……好きなのかもしれないし、嫌いなのかもしれない」
「なにそれ、へんなの」
少女はまた笑った。声を合わせて、わたしも一緒に笑った。
わたしは、自分の好きなものを知らない。小さい頃は知っていた気がするのに。



母親の記憶はない。わたしが物心つく頃には、もう家にいなかった。父親は会社勤めだったから、幼いわたしと弟の世話をしてくれたのは祖父だった。
祖父は甘いものが大好きだった。和菓子も好んで食べていたけれど、カスタードのたっぷり入ったシュークリームが大好物だった。気に入った店を見つけると、毎週のように家族全員分買ってきた。それは、いつも金曜日だった。なぜ、と聞くわたしに祖父は笑って、金曜日はおじいちゃんの誕生曜日だからさ、と答えた。
でも今のわたしは知っている。祖母の誕生曜日も金曜日であることを。そして、シュークリームは祖母の好物であったことを。
祖父のことを思うとき、わたしは決まって仏壇にシュークリームを供えていた背中を思い出す。当時のわたしは知る由もなかったけれど、彼の胸にあったのはどうしようもない諦めだったのではないだろうか。残り少ない人生のうちに、決してひっくり返ることはないだろうという諦め。
だからこそ、祖父はわたしに対して時々ものすごく厳しかったのだ。



「まあのおにいちゃんはね、まあとちがってあたまがいいから、おとなになったら、ベンゴシになるんだよ」
「……弁護士?」
「うん。おねえさん、ベンゴシって知ってる? 人のやくに立つとってもえらいお仕事なんだって。お金もいっぱいもらえるんだって。だからおにいちゃんがたくさんおべんきょうして、ベンゴシになったら、まあをオーストラリアに連れて行ってくれるの!」
「……そうなんだ。まあちゃんはオーストラリアに行きたいの?」
「うん! コアラをだっこするの!」
「へえ、いいな〜。……お兄ちゃんは今何年生?」
「四ねんせい」
「そっか」
雨音に混じって、どこかで鳥が鳴いているのが聞こえる。わたしは雨に煙る視界のその奥に目を凝らしながら、お兄ちゃんのこれから先の未来を思った。
『大人は残酷で、子供だって残酷で、痛みを感じやすい僕らはただただ黙って耐えるしかないんだ。開き直ったり、いじけたりしてはいけないよ。その瞬間、この世界さえも嬉々として僕らを虐げ始める』
……ああ、なんて、独りよがりな感情。こんなもの、誰も、何も動かしやしない。世界に働きかける努力をせずに、どうして諦める?
あの人が見ていた世界は、わたしのものより救いがなかったのだろうか? 真っ暗闇で、一筋の光さえも見出せない場所だったのだろうか?
わたしの存在は微かな希望にさえ、なり得なかったのだろうか……?
「おにいちゃんはときどきまあにいじわるするけど、まあはおにいちゃんのことだいすき。サッカーだってじょうずなんだよ」
でも、閉じた心にその言葉は届かないんだ。
決して。



あの人は近所のアパートの一階に住んでいた。
祖父と何の縁か仲が良く、いつも一緒に夕御飯を食べた。わたしと弟が小学校低学年のころ、あの人は市内の国立大に通う大学生だった。わたしたち三人でどこへでも遊びに出掛けた。

歳こそ十違えど、弟のいないとき、あの人とわたしは二人でいろんなことを語り合った。
ミコト、とあの人はそうわたしのことを呼び、わたしにも自分のことを名前で呼ばせた。それは、二人きりの時だけだった。それが、わたしたち二人の間の暗黙のルールだった。



「雨の日に猫がどこにいるか知ってる?」
少女は首を傾げる。わたしは一呼吸おいて話し始める。
「昔、猫を飼っていたことがあるの。その子、名前は空っていってね、真っ黒な猫だった」
「え、なんで、クロじゃないの?」
「目が、昼間の晴れた空の色をしていたから。本当、綺麗な空色だったんだよ。……それでね、ある日、空が空を見上げてるの」
「ふふ、空が空を見てたんだぁ」
「そう、空がしばらく空を見ていてね、そして、一声、にゃあって鳴いたの。だからわたしは上に何かいるのかなって、空の見ている空を見上げたんだけど……。でも、なんにもなくて、仕方なくまた空のほうを見たら、……いなくなってるの。空が、ついさっきまでそこにいたはずなのに」
「おねえさんが空を見てるあいだに、どっか走って逃げちゃったんじゃない?」
「うん、わたしもそう思うことにした。でも、空から目を離したのってほんの一瞬だったんだよ? ……なんか変だけど、まぁいっかって、とりあえずそのときは思うことにしたの。そしたら……」
「そしたら?」
「にゃあ、って上から声が聞こえたの。すごく小さかったんだけどね。はっとして、空を見上げると、ぽつんって鼻の頭に雨が落ちてきた。それから、一気に土砂降りになって、わたしは走って家に帰って、……途中からもう全身びしょ濡れで、靴の中もぐちょぐちょで、走るのも面倒くさくなって、歩いて帰ったんだけど、雨はなかなか止まなくてね。空も全然帰ってこなくて、わたしは二階の自分の部屋で窓の外を眺めながら待っていたの。……にゃあ。知らない内にうとうとしていたみたい。鳴き声が聞こえたような気がして目を開けると、空がうちの庭をゆっくりと歩いているところだった。雨もいつの間にか上がっていた。わたしは窓ガラスを開けた。空は二階のわたしに気がつくと、もう一度にゃあ、と鳴いてみせた。空を抱くと、なぜかお日様の匂いがしたの。そのとき、西の空の雲が割れて光が漏れていた……」
「空はどこに行ってたの?」
「よくわかんない。けど、空を抱き上げたときに、いろいろ見えたの。……お日様のひかり、乾いた強い風、白く光る雲。空の瞳は無限に広がる空の色を映してた。それは、宇宙に少し近い色」
少女は微笑んだまま、答えない。



空は、一番初めに飼った猫だ。 
と言っても、わたしが飼った猫は、空と次のケイだけ。ケイがあまりにも空と違っていたので、わたしはそれ以後猫を飼うのをやめたのだ。

空は不思議な猫だった。空色の瞳はとても澄んでいて、この世界の全てを知って、なおかつそれを受け入れているようだった。
わたしは空が大好きだった。
空も多分わたしのことを好いてくれていたのではないかと思う。何も言わなくても、こちらを見なくても、わたしのことを気にしてくれているのが分かった。……いつも、しょうがない一緒にいてやるか、って感じなのに。
空がいなくなる日、わたしは空を抱いて泣いた。空は何も言わなかったけれど、ああ、お別れなんだな、ということをわたしは知っていた。
空は今、空にいるのだろうか。
空の艶やかな黒い毛並が黄金色の太陽の光をたくさん吸い込み、そして風が優しく彼を撫でていく様子が、わたしの目にありありと浮かぶのだ。

でも、あの人は空を理解しなかった。
『結局のところ、彼は君が嫌いだったんだよ。だって、そうじゃなかったら君から離れていくはずないだろう? 彼は猫だ。猫は人間なんかと違って、とっても自由な生き物なんだから』
あの人は、あの人の見たいものだけを見て生きた。つまるところ、そういうことなのだろう。真っ暗闇の世界は、全てあの人の望んだもの。

あの人はわたしに、……自分の理想を映したのだ。



「雨の日は思い出すの?」
少女は微笑んだまま、その唇から言葉をつむぎだす。
「空のこと。……それからあの人のこと?」
わたしは、はっとして少女を見る。
「だから、ミコトは旅人になるんでしょう?」
少女は、微笑んだまま。ただ、微笑んだまま。
「……わたしはミコトなんかじゃない」
雨音の向こうに、あの人の声。わたしは耳を傾ける。



その日は雨が降っていた。
わたしはあの人の部屋で、あの人と一緒に雨の音を聞いていた。梅雨の頃。窓の外、曇天に映える紫陽花。
『ねえ、ミコト。僕たちには、大事なものが欠けているんだ』
あの人は静かに微笑んでいた。いつもの笑顔。わたしは、その穏やかな笑顔の向こうにある感情の激しさを知っていた。
暗い部屋。あの人は窓の外を見る。わたしは端正なあの人の横顔を見ながら、あの人の言葉を待った。部屋いっぱいの雨の音。
『僕たちは人間の内側を知っている。……僕たちは繊細すぎるんだ』
あの人はわたしを見た。視線が静かに交じり合う。
『僕たちは他人と寄り添うことができない。人を愛せない。……恋のできない僕らは、子孫を残せない変異体なんだよ』
つまりは欠陥品、とあの人は続けた。
わたしは、あの人の話をただ聞いていた。もしかしたら、あの人の声を聞いていただけかも知れない。あの人は、そのときも笑顔だった。わたしはその笑顔の裏に潜む感情を、おそらく正確に理解していた。
わたしは誰よりもあの人のことを理解していた。それはきっと、あの人がわたしを理解する遥か上位のレベルで。
わたしはあの人がオレンジジュースの入ったグラスに白い粉を入れるのを見た。あの人はわたしの目の前で自分のグラスと、わたしのグラスにそれを入れた。
『さあ、ミコト。乾杯しようか』
あの人はいつもの笑顔で自分のグラスを持ち上げた。わたしも用意されたグラスを手に取る。冷えたグラスはすんなりと手に馴染んだ。
何に乾杯するの、とわたしはあの人に尋ねた。聞いておかなければならなかった。……多分、わたしは答えを知っていたのだけれど。

雨の底、二人きり。
わたしたちは、手を繋いで眠った。



「……美琴は、わたしのお母さんの名前だよ」
わたしの言葉に、少女は頷く。
「うん、そう。そして、あの人はわたしをその名で呼んだ。……二人だけの部屋で」
母親は、わたしがまだ立つこともままならないときに亡くなった。とても体の弱い人だったらしい。
わたしは少女の横顔を見る。切り揃えられた髪に隠れた口元には、やはり笑みが浮かべられていたのだ。
「旅の終わりだね」
少女はベンチから行きよい良く飛び降り、くるりとこちらを向いた。
「わたしは、それでも、あの人のことが好きだったんだよ」
あの日、閉じ込めた思い。
あの日、わたしだけが生き残ったあの日、わたしは閉じ込めたのだ。感情の一部を。でも、わたしはあの日から、ずっと探していた。ずっと、ずっと、待っていたんだ。
「……おかえりなさい」
「ただいま」
少女はにっこり微笑んだ。



「……おねえさん? どうしたの? だいじょうぶ?」
イチゴの甘いにおい。目の前の少女は、心配そうにわたしの顔を覗き込んでいた。
「ごめん、ちょっと眠っていただけ」
「ええ! おねえさん、目あけてたよ!」
「……うん、そうだね」

あの日、あの雨の部屋で、あの人はわたしを試したのだ。ぎりぎりの量の薬を入れて。わたしがあの人を選ぶかどうかを。
結局、わたしは一人で生き残った。……あの人は、わたしを選ばなかった。
祖父も、父親も、あの人も。
たとえ、一生平行線のままだとしても、それでも諦めるべきではないんだ。
絶対に。

「おねえさん、あれ!」
少女の指差すほうを見る。大きな虹。いつの間にか、雨は上がっていたらしい。わたしはベンチから立ち上がった。

『僕とミコトがいつまでも一緒にいられますように』
それって、おねがいごと?
あれそっか、とあの人は照れたように笑った。

「なんか、ラッキーだね」
少女は欠けた前歯を見せて、笑った。
わたしは胸いっぱいに空を吸い込んだ。
あの人の最後の笑顔。
その奥に潜んでいた感情。

わたしたちは、ずっと、手を繋いだまま。
                                            
                           終    












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「恋愛物」をテーマに書いたものです。
私は書きながらお話を作っていくタイプで、いつもなかなか終わりが見えません。
今回は、「恋のできない僕らは」のくだりを比較的始めのほうに思いつき、それを言わせるために「僕」が一人称の「あの人」に出てきてもらいました。(主人公の一人称は、すでに「わたし」だったのです。)
それから、終わりの一文も半分くらい来たところで思いついたのですが、「あの人」が生きているのか、死んでいるのかもわからない状態でした。
とりあえず、終わって良かった、というのが今の正直な感想です。
                        
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