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Sentimental Egoist

めしや

 時間は朝のHR開始五分前、場所は校門五百メートル前。遅刻間際であせる学生たちの中で、その女の子はただ一人呆然と立ち尽くしていた。通学鞄を誤って落としてしまったのだろう、周囲には中身が散乱している。運悪く筆箱が開いてしまったようで、シャーペンやら消しゴムやらまで散らばっていた。
 何よりも日々の平穏を尊ぶ私、笹川冴夏は、その光景を見なかったことにして横を通り過ぎることに決めた。
 当の女の子はパニックを起こしたのか、どうしたらいいのかわからない様子で周囲を見回している。しかし、私を含む同じ制服に身を包んだ学生たちは、足早に彼女を追い抜いていくだけだ。
 時間帯が違えばきっと誰かが拾うのを手伝ったろうに、可哀想なことだ。今は皆、己が遅刻するか否かの瀬戸際、自分のことで手一杯なのだ。
 結局人間なんて、自分のことしか考えてないのだから。
 こんな時に手伝うのなんて、よほどのお人好しか変わり者しかいないだろう。私がそう考えた時、それにかぶるようにして男の声が響いた。
「君、大丈夫?」
 声と同時にブレーキ音。そして自転車を固定する金具を立てる、大きな金属音。
 嫌な予感がして、私は足を止めて振り返る。すると、そこには予想通りの光景が展開されていた。
 一人の男子生徒が、わざわざ自転車から降りて広がっている女の子の荷物を拾い集めていた。女の子本人はまだ混乱しているようで、彼の行動をわけがわからないというように眺めているだけだった。
 私は一つ息をつくと、覚悟して道を戻った。そして彼がカバーし切れていなかった、遠くまで転がったシャーペンを拾う。
 新たに加わった助っ人の存在を気配で悟ったのか、彼が顔を上げた。私の顔を見るなり、目を丸くする。
「……冴夏?」
「二人より三人で拾った方が、遅刻する確率が減るでしょう?」
 暗に、そこで突っ立ている女の子に、「お前も動け」と促す。それを察してくれたようで、彼女は弾かれたようにあわてて拾い出した。
 三人ということもあって、回収作業はスムーズに終わった。女の子は鞄の泥を払って、こちらに深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございました――先輩」
 途中、ちらりと私たちの胸元の校章の色で学年を確認してから、彼女はそう言った。彼女は一年生、彼と私は二年生だった。
 わざわざ彼女が確認したということは、彼と彼女の間には面識がないのだろう。それなのに、遅刻ぎりぎりのところをわざわざ自転車から降りてきてまで見知らぬ人を助けるとは――全く、『こいつ』らしい。
 彼は私の感想になど当然ながら気付くことなく、さわやかに後輩に笑いかけていた。その表情に、恩着せがましさは一切ない。
「今度から気をつけるんだよ」
 女の子は、「はい!」と頷き、もう一度頭を下げてからきびすを返し、駆け出した。もう走らないと危ない時間帯だ。
 しかし私は彼女に続こうとせず、彼の隣に立っていた。
「冴夏は行かないの?」
 不思議そうな顔で尋ねてくる彼に、私は済ました顔で言った。
「あら、足がそこにあるじゃない」
 私は彼が乗ってきた自転車の荷台を指差した。
「乗せて行ってくれるわよね、空也?」
 ちなみに、これから先校門までは、通称『地獄坂』と呼ばれる難所が続いている。
 彼は「うっ」とぎこちなく笑った後、ゆっくりと頷いた。
 このお人好しこそ、清塚空也。私の幼なじみにして、彼氏である。


 急ぐ通学者の間を、二人乗りの自転車が走る。
 坂を登る皆の足は重い。特に、私の前でひいひい息を切らしている男子生徒は非常につらそうである。
 しかし私はとても楽ちんだ。良いことである。
「そういえばさ、冴夏」
 あえぎながら空也が話しかけてくる。苦しいならしゃべらなければいいのにと思うが、とりあえず私は「何?」と聞き返すことにした。
「今日、学校終わったら、予定、ある?」
「そうね――」
 確か、特に何もなかったと思うけど――と私が考えをめぐらしている間も、空也の言葉は続けられる。
「今日、レンタル開始の、映画あったろ? 冴夏の好きな、俳優が出てるやつ」
 あれのことか、と私は思い至る。私の好きな俳優主演のラブロマンス。公開時から各地で本当に泣けると評判の感動もので、レンタルショップでもあっという間に貸し出され予約待ちになるだろう人気作だ。
「バイトしてる、友達のツテでさ、とっといてもらえるって、言うから」
 相変わらず人望のある奴だ、と私は呆れる。気さくでお人よしな性格から、空也の人気と人望は高いのだ。同性にも、異性にも。
 でもめずらしいな、とも私は思った。空也はその人望の厚さと広さを活用することが滅多にない。よほど私とその映画が見たかったのだろう。いや、私を喜ばせたかったのか。
 空也が身体をひねって私の方を向いた。
「公開中は、一緒に見に行けなかったからさ、今日は俺の部屋で、その映画見ない?」
 その顔には、照れたような笑みが浮かんでいた。それを眺めながら、私はきっぱりと告げる。
「ごめん、先約があるの」
 それから、「怖いからちゃんと前を見て運転して」と冷静に言うと、彼は苦笑いして「ごめん」と謝り、前に向きなおして力強くペダルをこいだ。



「今日? まあ、予定はないから良いがね」
 昼食時、食堂にて。いつも一緒に食事を取る友人は、快くとはいかないまでも、私の誘いに頷いてくれた。
 よし、これで既成事実ができた。と胸をなでおろす私に、彼女は食事の手を止めずこんなことを言い出した。
「しかし、武内衛の皮肉は覚悟しておいた方がいいと思うぞ?」
「どういうこと?」
 武内衛は空也の友達だ。知り合いは多いが気の置けない友達が少ない空也にとっては貴重な、遠慮なく付き合える存在であり、親友といっても差し支えのないポジションである。しかし私は彼にあまり良く思われていない。
「私と彼が同じクラスだということは知っているね? 休み時間に清塚空也が訪ねてきて、『取り置きのことはいいから』と言ってきたんだ。武内衛は君に対して怒っていたよ。清塚空也は『僕が冴夏に予定を聞いておかなかったから悪いんだ。先約を優先する冴夏の方が正しい』と言っていたけどね」
 そこで友人は、にやりと笑った。
 なるほど、それで友人は、私は空也の誘いを断るために自分をだしに使おうとしていることに気付いたのだろう。
「……今日は何かおごらせていただきます」
「おや、ありがとう」
 彼女は済ました顔で礼を言った後、ふと首をかしげた。
「ところで、何で清塚空也の申し出を断ったんだい?」
「…………」
 嫌なところを突かれたな、と私は口ごもった。
「君はあの映画を気に入っていたじゃないか。映画館でぼろぼろ泣いちゃってさ」
 まあ君はもともと涙もろいけどねえ、と友人は付け足し、ジュースをすすった。
 そう、私は彼女と一緒に公開初日に見に行った際、感動のあまり涙を流してしまったのだ。もっとも、周りにも泣いている人は、カップルの男の方を含め大勢いたのだが。
 その映画をすっかり気に入った私は、以来何度も映画館に通った。友人に冷やかされるのが嫌なので、一人で。
 空也とは、一度も行かなかった。空也とは涙ものの映画を見ないと心に決めているのだ。
「泣いちゃうから、嫌なのよ。涙で化粧が落ちちゃうじゃない」
「すっぴんでいいじゃないか。長い付き合いの幼なじみ、彼氏彼女の関係になってからもう二年。今さらだろう?」
「意地の問題よ」
「そういうものかい」
 友人がぼやいたその時、ふと、騒がしい食堂の中からある声が聞こえてきた。
「今朝見たんだけど、やっぱり清塚君って格好いいよね」
 少し離れたテーブルからだった。ちらりと目を向けると、見覚えのある同学年の女子集団が、しゃべりながら食事を取っていた。
「知り合いってわけじゃないのにさ、後輩が困ってるところを助けるなんてすごいよねー」
 一人の言葉に、同意する複数の声。実にかしましい。
 いや、別に声そのものが特別大きいわけではないのだ。ともすれば、食堂を満たすざわめきにまぎれてしまいそうな声量である。しかしそれがはっきりと聞こえてくるということは――
「――なんで、笹川さんなんかと付き合ってるんだろうね」
 つまりは、指向性のある言葉ということだ。明らかに、私がここにいることを知っての会話である。
 友人が楽しそうな顔をして、口を閉じた。彼女たちの会話に耳を済ませているのだろう。
「今朝だって、最初は困ってる後輩の横を冷たく通り過ぎたのにさ、清塚君が来たら後輩を助け出したんだよ。どう見てもポイント稼ぎじゃん」
 そういう君よ。要するにあなたは「自分は後輩が困っているところを通りかかったけど無視して助けませんでした」と言っているようなものなのだが、気付いているのだろうか。
 そしてそれに、『まじで?』とか『最悪ー』とか私を罵っている人たちよ。あなた方は陰口を叩くという行為をどう思っているのだろうか。
 本人たちは私を攻撃しているつもりなのだろうが、それは全く効いていない。むしろこちらが同情してしまうくらいだ。
「――ねえ、やめなよ」
 不意に、澄んだ綺麗な声が割って入ってきた。私はぴくりと身体を震わせた。目を向けなくてもわかる。集団の中今までずっと黙っていた一人が、発言をしたのだ。
「笹川さんのこと、悪く言っちゃ駄目だよ」
 それは全く裏のない、言葉通りの響きがあった。
「もー、久美は人が好いんだから」
「何であんな奴なんかかばうのさ。清塚君が家族亡くして落ち込んでるときに付け入って人の彼氏奪っちゃうような奴なんだよ」
「そうだよ、久美と清塚君が付き合い出してからさ、絶対ひがんでたよあの女」
「そんなんじゃないよ。空也君が私じゃなくて笹川さんを選んだ、それだけのことだよ」
 彼女の言葉は、綺麗な声そのままに清らかだ。私は、胃がむかむかするのを感じた。
 彼女は一之瀬久美。空也が中三の時まで、すなわち私の前に付き合っていた相手である。
「私は、空也君を支えなくちゃいけないときにそれができなくて、笹川さんにはそれができた。空也君が笹川さんを選ぶのもしょうがないよ」
 そんなことを、ともすれば泣き出しそうな表情で一之瀬さんは言ってくれる。
 それを背中で聞きながら、目の前の友人は意地の悪い表情で私に笑いかけた。
「いやあ、昼間っから素敵なメロドラマだねえ」
 全くだ。私は昼食を早めに切り上げるべく、食事のピッチを上げた。友人はもったいなそうな顔をしながらも、それに合わせてくる。
 やがて昼食を終え、食堂を出ようとしたその時。入口で思わぬ人物に遭遇してしまった。
 空也の親友、武内衛である。食堂に飲み物の買出しに来たのだろう。腕の中にはパックのジュースやらお茶やらがあった。
「お前、空也の誘い断ったんだって?」
 のっけから、険悪さを隠さない態度と口調で尋ねてくる。見なかったことにしてやり過ごそうとしていた私は、仕方なくその場に立ち止まることになった。
「ええ、予定があったから」
 しれっと答える私に、友人は何も言わないでいてくれた。ただ、一瞬楽しそうな顔をしたが。
 私の反応を、彼は気に入らなかったようだ。顔をしかめて口を開く。
「あいつの方から、わざわざ取り置きができないか聞いてきたんだぞ。それがあいつにとってすごくめずらしいことだって知らないのかよ」
 もちろんそんなこと知っている。家族を亡くして以来、空也は誰かを頼ったりするのを避けるようになっていた。
 そんな空也がめずらしい行動に出るくらいなのだから、その心を汲んでやれ、というのが武内君の主張なのだろう。言いたいことはわかるが、だからといって聞いてやる義理はない。そういったことを、丁寧にオブラートに包んで言うことにする。
「それはわかっているけど、でもだからといって、先にした約束の方をキャンセルしても、空也は気にするでしょう? わざわざ取り置きしてくれた武内君には悪いと思うけど――」
「もういいよ」
 武内君は舌打ちをして去っていった。最後まで、苛立たしげな様子だった。
 腹立たしいのこはこっちだ、と私は思う。私には本当は予定がなかったことを知らない者にとっては、私の行動には何も問題がないはずである。むしろ、非をあえて探すとすれば、それは私の予定を確かめずに先走って取り置きを依頼した空也にある。何故私が責められなければならないのか。
『武内衛は、一之瀬久美が好きなのさ』
 以前、友人がにやにや笑いながらそう語ったことがある。
『でも一之瀬久美は清塚空也が好きで、対抗するには自分は清塚空也と仲良くなり過ぎていた。だから親友に譲る形で勝負を降りた、というのが武内衛の中での図式だろうねえ』
 その心は? と尋ねてみると、『勝ち目のない勝負から体よく逃げたのさ』と友人は口元を歪めて答えた。
『しかし親友君は、譲られた素敵な彼女をあっさり捨てて、一般的に見ればごく平凡な女の子に乗り換えた――となると、武内衛のプライドは傷つくよねえ。しかしながら当然、親友を直接責められはしない』
 だから。苛立ちの矛先がその平凡な女の子に向かってきた、というのが友人の解釈である。大方当たっているだろうと私は思う。
 全く、結局人は自分のことしか考えないものなのだ。
 説明した友人だって、結局のところこういう人間関係のどろどろを自分が巻き込まれないところから眺めるのが好きだから、こうして好んで私のそばにいるのだろうし。
「それにしても、前々から疑問に思ってたのだが」
 武内君が完全に見えなくなってから、友人が尋ねてきた。その目には好奇心が爛と輝いている。
「君は何故、清塚空也と付き合い出したんだい? 君は、こういう面倒ごとが嫌いで、近寄らないし近付けさせないようにするタイプだと思うのだが」
 相変わらず鋭い観察眼だ、と私は内心舌を巻く。そしてそれを表に出さないようにしながら、私は澄ました顔で言った。
「それでも、好きなものはしょうがないもの」
「好き、ねえ――具体的にはどのくらい?」
 友人は含みのある口調でくり返すと、嫌味なことを口にした。
 私は少し考えてからこう答えた。
「あいつが一人残されて泣くのを想像したくないから、あいつが死ぬまでは何としてでも生きよう、って思うくらい」
 中学三年生の時のことである。
 空也の家族が死んだ。心中だった。父親も、母親も、彼が慕っていた兄も、可愛がっていた年の離れた妹も、みんな死んだ。生き残ったのは、空也と飼っていた猫だけだった。彼らはそもそも心中に巻き込まれなかった。
 遺書には生活苦と、『家族ではない空也を道連れにするのは忍びない』ということが書いてあって、空也はそれで初めて、十数年間共に暮らしてきた家族と血がつながってなかったということを知った。実は戸籍も違ったらしい。
『家族じゃなかったんだ』
 葬儀を終えた夜、空也は家族の遺影を眺めながら泣いていた。普段笑みを絶やさない彼の顔に表情は見えず、こわばった頬の上を涙が途切れることなく落ちていった。そのうちに体中の水分を使い切って、干からびてしまうんじゃないかという勢いだった。
 そんな彼を慰めた最後の家族である猫は、その三日後車に轢かれて死んだ。空也の目の前でだった。
『もう、僕には誰もいなくなったんだね』
 そうつぶやいた空也の表情を、私は一生忘れることができないだろう。
『私がいるよ』
 だから、私はあの時空也に向けてこう告げたのだ。
『私が、ずっと、空也のそばにいるよ』
 その日から私は、空也の彼女という立場になった。この一連の流れの結果を、何も知らない第三者がどう解釈するかなんて関係ない。何があったのかを言うつもりもない。ただ私は決めたのだ、空也のそばにずっといることを。
「……君は本当に清塚空也の事を愛しているんだねえ」
 友人は、納得したようなそぶりで頷いた。
「そのわりには、扱いがぞんざいに見えるけど」
「空也だからいいのよ」
 私がきっぱり言うと、友人は「仲のむつまじいことで」と笑った。



「衛のこと、ごめんね」
 夜の街で二人乗りの自転車を走らせながら、空也は神妙な声で告げた。私はその荷台に横座りして彼の背につかまりながら、「別に」と応える。
 友人と突発的カラオケを終えた私は、空也からメールが来ていたことに気付いた。話したいことがあるから会いたい、とのこと。帰り道の足が欲しかった私はすぐに返信をした。メールを受信してからかなり時間が経ってたのに、空也からの返信は早かった。
 こうして私は、自転車の荷台の上の人となったわけである。
「あいつには言っておいたからさ。あいつ、普段はいい奴なんだけど、機嫌が悪かったみたいで――」
 その言葉、いったい何回聞いただろう。私はこっそりため息をついた。こういうことが起きるたびに空也は、私にも武内君にもフォローをしている。
「俺にとって冴夏は、その、大事な人だからさ。衛にもいつか必ずわかってもらうから」
 照れくさそうに空也は告げた。
「一応言っておくけど、私の方は、武内君を嫌ってるわけじゃないからね」
 蔑んではいるけど、とはもちろん言わない。
「うん、わかってる。衛も、俺にとっては大事な友達だから、冴夏にそう言ってもらえて嬉しいよ」
 空也の声が明るく弾む。
 大事な友達、ね。私は心の中でくり返した。
 二年前に大切な存在を一気に失った空也は、以来人の関係に臆病になった節がある。人付き合いは良いが、深く踏み込まない。引き取ってくれた現養父母に対してもそうで、私は彼らから悲しげな顔で相談を持ちかけられたことがある。
 そんな中、以前と変わらない交流を続けているのは、私を除けば武内君ぐらいなものである。私に関すること以外では、よほど気が合っているらしい。
 しかし空也は気付いていない。武内君に対してどんなに私のフォローをしても、効果はないことを。むしろ、両者の顔を立てようとすればするほど、空也の「いい人」っぷりに武内君のプライドが刺激され、さらに私へ苛立ちを吐き出すことになる。
 私と武内君、両者同時に付き合っていくことは難しい。いつかどちらかを選ばなければならなくなったら、空也はどうするのだろう。
 そこで私は怖くなって、考えるのをやめた。
「ところで、もうすぐ空也の誕生日よね?」
 話題を変えるため、私は空也の背中に問いかけた。
「うん。覚えててくれたんだ」
 すぐに空也は乗ってくれた。私が誕生日を把握していたことが本当に嬉しいらしく、その声は明るい。笑顔が見えるかのようである。
「そういえば僕、冴夏からの最初のプレゼント、まだ取ってあるよ」
「……そりゃあ捨てられたら困るわよ」
 付き合い出して一年目のプレゼントを、交際中に捨てられたらたまらない。
「そうじゃなくて、付き合い出す前の話」
 そんなことがあっただろうか。私は記憶を探るが思い至らない。幼なじみということでバレンタインチョコを渡したことは確かにあったが、さすがにそれを取ってあるわけはないし。
 私が戸惑っていると、空也はくすくす笑って答えを披露した。
「小一の時の漫画だよ」
「…………!」
 私は息を呑んだ。心臓が大きく跳ね上がる。しかし空也は私の反応を、単なる驚きと取ったらしい、そのまま言葉を続ける。
「まあ正確に言うとプレゼントじゃないけどさ。子供向けの漫画の、途中の巻だけど、人からもらった物だから捨てられないでずっと持ってたんだ。でも、今の家に引っ越すときは、ちゃんと冴夏からからもらった大切なものとして、持って行ったよ」
 空也の声が遠い。私は破裂しそうな胸を押さえた。落ち着け、落ち着け。なんでもない振りをしろ。
 しかし空也は私の異変に気付き、「冴夏?」と呼んで自転車を止めた。身体をひねって私の顔を覗き込もうとする。私はそれから逃れるように、うつむき目をきつくつぶった。
「どうしたの、大丈夫?」
 気遣わしげな声に、私は唇をかむ。
 小学校一年生の時のことだ。私は空也から借りた漫画に、誤ってジュースをこぼして駄目にしてしまった。
 隠さなくちゃ、とその時反射的に思った。泣きながら、何としてでもこのミスを隠さなければならない、と。
 私はその漫画をゴミ箱に捨てた。しかしそれだけだと見つかるかもしれないと考え、漫画をびりびりに破き、『自分がジュースをこぼした漫画』という存在をこの世から抹消した。それからなけなしのお小遣いで新品の漫画を買い、それを返した。新しいことを不審に思われたが、とっさに嘘をついた。
『間違えて、他の本と一緒に捨てちゃったの』
 失態は、より小さな失態で覆い隠せ。私の心の奥底には、そういった行動プログラムがある。吐き気がしそうなくらい愚かな行為だ。
 思い出したくなかった。
「…………冴夏?」
 不安げな空也の声が聞こえてくる。
 駄目だ。こんなことぐらいで取り乱しているようじゃ、私は空也のそばにいられない。何とか取り繕わないといけない。
 失態は、より小さな失態で覆い隠せ。
「……あんたがストーカーみたいな気持ち悪い行動しているから、びっくりしたのよ」
「ストーカーって……ひどいなあ」
 空也が苦笑するのが気配でわかった。私は体の緊張を解き、恐る恐る目を開ける。
 やはり、空也は笑っていた。
「……そうだよね。冴夏も僕みたいなストーカーに家まで送られるのは嫌だよね。ここに置いて行こうか?」
「あら空也。私は、あなたが大切な大切な彼女を夜道にひとりで歩かせるような酷い奴じゃないって、信じてるわ」
 もちろん冗談まじりのやり取りである。しかし、次の空也の切り返しは予想外だった。
「うん、僕にとって冴夏は、大切な大切な彼女だよ」
 ずきり、と胸が痛んだ。
 空也が再度ペダルを漕ぎ出す。夜の明かりが後ろへ流れていった。



 翌日の放課後、私は一之瀬久美に呼び出された。
 手紙や伝言だったら忘れたふりをして無視するのだが、直接本人に来られるとそうはいかない。用があるのだと嘘をついても、「少しの間だから」と押し切られた。
 つれてこられたのは、人気のない校舎裏だった。まずいな、と私は思った。話の内容も大体予想はつくし、面白いことにはなりそうにない。
「それでね、笹川さん。空也君ことなんだけど――」
 全く予想通りの話題だった。私は辟易しながらも、続きを促す。
「空也が、どうかしたの?」
「もう、空也君を解放して欲しいの」
 一瞬、息が止まったかと思った。
「…………!?」
 いったい何を、いや、あのことは私以外は知らないはず。だけど、でも――
 彼女はいったい、何を言おうとしている?
「笹川さんは、空也君の家族が亡くなってから空也君を支えたのをたてにしてそばにいるけど、それをもうやめて欲しいのよ」
 何だそういうことか、と私はほっとして混乱から抜け出し、一拍間を開けて、彼女がいったことの意味を認識した。
「…………は?」
 思わず、まじまじと彼女を見てしまう。
 相変わらず整った顔立ちだ。その表情は今。切なげに歪められ、瞳は潤み揺らめいていた。
 その目から、ぽろりと涙が零れ落ちる。
「空也君が可哀想だよ。あなたなんかに縛られて、周りを見ることができないでいるなんて」
 一之瀬さんは本気のようだった。本気でそう思っている目をしていた。とても、昨日『笹川さんのことを悪く言っちゃいけない』だなんて綺麗事を吐いていた奴と、同一人物とは思えない。
 いや、おそらく彼女の中では矛盾なくつながっているのだろう。きっとこの人は、自分のことが一番好きなのだ。
 自分にとって都合の良い状況を作ること、自分を良く見せること。彼女にとって重要なのはそういった行為。そのために、言動なんてころころ変わるのだろう。
 ああ、あんたもなのか。
 大馬鹿野郎。
 彼女は空也のために泣いているんじゃない。空也に振り向いてもらえない自分が可哀想で泣いているのだ。でもそんなの見栄えが良くないということはわかっているから、責任を他人になすりつけている。
 だから彼女は、なおも涙を流して、綺麗な言葉で訴えてくるのだ。
「ねえ、空也君のために、離れてあげてよ」
「――――うるさい」
 取り繕っている余裕はなかった。ただ衝動のままに叫んだ。
「あんたの知ったことじゃないわよ!」
 吐き捨て、きびすを返して走る。この場からすぐに逃れたかった。腐った空気を感じていたくなかった。


 今は人間を見たくなかった。
 その心境が、私を人気のない方へない方へと走らせ、気付けば特別教室棟へ来ていた。部活動にも使われていないここは、放課後は滅多に人が訪れることはない。
 ずっと全速力で走っていたからだろう、私は階段の踊り場のところでとうとう力尽きた。息が苦しい。
 私は手すりにしがみつき身体を折り曲げ、荒い息を整えようと肩で呼吸をくり返した。そのことに集中していて階段を上がってくる足音に気付かなかった。
 不意に手をがしりとつかまれた。顔を上げ、私は呆然とする。
 ああ、何でここにいるんだ。
 武内衛。
 彼は私を威圧的な目で見下ろしながら尋ねてくる。
「一之瀬に何をしてたんだよ?」
 どうやらあれを見ていて、追ってきたらしい。
「……聞こえなかったの?」
「遠くで見かけただけだからな。でも、お前が一之瀬を泣かしたところは見たぞ」
 泣かしたんじゃない、勝手に向こうが自分が自己憐憫で泣いたんだ。
 その誤解を解くついでに、もう一つの誤解も解いてあげようか。一之瀬久美の人となりについて。彼女の本性を知ったら、彼はどんな反応をするだろう。黒い衝動が、むくりと頭をもたげる。
 しかしそれは次の瞬間、彼の発言によって吹き飛んだ。
「空也のことも考えろよな。迷惑なんだよ」
 馬鹿野郎。
 頭の中が、真っ白に染まった。
「――もう、いい加減にしてよ!!」
 ぶんっ、と勢いに任せて、私は腕を振り乱した。
 ああ、どうして。
 どうしてこんなにも、人は自分のことしか考えてなくて、そのくせそれを隠そうとしているんだ!
「お、おい……!?」
 滅茶苦茶に振り回した腕から武内君の手の感触が離れ、一瞬の間を開けて、
 どさっ、と下の方から重いものが落ちた音がした。
「………………え?」
 気付けば、階段の下で武内君が頭から血を流して倒れていた。ぴくりとも動かない。
 私は、腰を抜かしてすとんとその場に崩れ落ちた。
「――――あ」
 視界が歪んだ。瞬きするとぽろりと涙が落ちた。体が震えている。収まらない。歯の根が合わず、かちかちと音を立てる。収まらない。
 隠さなきゃ。
 私は思った。隠さないといけない。これは自分の失態だ。隠さないと。泣いている場合じゃない。泣いちゃ駄目だ。自分のために涙を流している暇はない。ああ、涙もろいのがこんなところで仇になるなんて。冷静に、冷静に行動しないと。隠さなきゃ。隠さなきゃ。
 でも身体は思うとおりに動かない。顔が勝手にうつむく。手足が震えて立つことができない。何とかしなくちゃいけないのに。隠さないと。隠さないと。
「――――冴夏」
 知っている声が、新たに下の方から響いてきた。私はとっさに顔を上げた。上げながら、そこにいるのが誰なのか悟っていた。空也だ。今の声は空也だ。顔を上げちゃいけない。見ちゃいけない。
 ――そこには、私の最も見たくない光景があるのだから。
 しかし身体はすでに行動を終了していた。私は、動揺に見開いた目でそれを見ることになった。
「冴夏」
 いつの間にやって来たのだろうか、空也は武内君の脇に膝をついていた。そして目が合うと、もう一度私の名前を呼んだ。
 普段のように、笑顔をその顔に乗せながら。
 親友の惨状を目の前にして、教室で何気ない会話を交わしているときと全く変わらない笑みが、そこにはあった。
 つうっと、瞬きもなく私の目から涙がこぼれた。
「衛、死んじゃったみたいだ。脈がない」
 決定的な一言を空也は告げた。やはり、笑い顔のままで。
「…………空也」
 呼びかけると、彼はこちらに笑顔を向けた。
「何?」
「……悲しい?」
「当たり前だろう。大切な、友達だったんだ」
 声はひどく落ち込んでいて、表情とは全くつり合っていなかった。
 すっと空也は立ち上がり、親友の亡骸にもう用はないとでもいうようなあっさりとした足取りで、階段を上り始める。
 空也の笑顔がゆっくりと近付いてくる。私は呆然とする頭で問いかけた。
「……泣いてるの?」
「泣かないよ」
 空也は短く答えた。
「泣かないでって言ったのは、冴夏じゃないか」
 ああ。
 私は天井を仰いだ。しかし視線をそらしても、見たくない現実は目の前にある。
 二年前、あの夜の私の言葉が、家族の喪失に崩れかけていた空也の心を、完全に壊した。
『泣かないで、空也。そんな顔してたら、みんな悲しむよ。おばさんたちだって』
 家族の遺影を前に泣き続ける彼に、私は言ってしまったのだ。
『笑ってよ、空也。いつもみたいに』
 自分の言葉が引き起こしたことに私が気付いたのは、その三日後、猫が死んだ時のことだった。
 最後の家族である猫の死を前にして、空也は笑っていた。その異常な光景に、私はぞっとして問いかけた。どうしてそんな顔をしている、と。答えは簡潔だった。
『泣かないでって言ったのは、冴夏じゃないか』
 ――あの時の私の言葉が、空也に落涙という行為の代わりに笑顔を当てはめさせたのか、それとも彼の精神を根本から捻じ曲げてしまったのか、具体的にはわからない。
 ただはっきりとしているのは、私が失態を犯したということ。その失態で、空也が壊れてしまったということ。
 隠さなきゃ、と私は思った。
 震える身体で、ぼろぼろ涙をこぼしながら思った。この失態、隠し通さなければならない。
『もう、僕には誰もいなくなったんだね』
 空也が笑顔のまま泣いているような声でそうつぶやいた時、私は反射的に告げていた。
『私がいるよ』
『…………冴夏?』
『私が、ずっと、空也のそばにいるよ』
 そう、ずっと空也のそばにいて、監視して、彼の異常性を他者から隠すのだ。
 第三者からどう誹られてもいい。失態は、より小さな失態で覆い隠す。
『ありがとう、冴夏』
 空也は笑って私を抱きしめてきた。その表情が本当に喜びから来たものなのか、それとも別の感情によるものなのか、私は今でもわかっていない。
『もう僕を、一人にしないで』
 そう空也がつぶやいた時から、私たちは恋人同士という関係になった。ただお互いに、自分のことしか考えずに。
 私は保身のために、恋人と言う立場を利用して空也の行動を制限した。彼を、普通の人ならば涙を流すような場所に行かせない。周囲の人々が涙をその頬に伝わせている状況では、空也の笑い顔は異様に浮き上がるだろう。
 それでも、そういった場面を避けられずに、笑顔の空也を引っ張って周りから引き離したことがある。焦りと恐怖で心臓が破裂しそうなほどに鼓動を打つ中、私は彼の表情を見上げふと思った。
 空也は今、心から本当に笑っているのだろうか。
 それとも、笑顔の裏で胸を痛め泣いているのだろうか。
 もう、真実はわからない。
「――――冴夏」
 間近からの空也の声が、私の思考を現在に引き戻した。彼は階段を上り切り、私の隣まで来ていた。
「そんなに怯えなくても、大丈夫だよ」
「大丈夫って……何がよ」
「たいした罪にはならないだろう、ってこと」
 わけがわからず、私は空也の顔を見返した。私は人を殺したのだ。おそらくあの時、腕を振り回した際に武内君の体勢が崩れて階段を落ち、当たり所が悪くてそのまま死んでしまったのだろう。殺意はなかったとはいえ、軽くない刑罰を受けることにはなるはずだ。
「僕、見てたんだ。衛が冴夏に襲いかかろうとするところ」
「…………え?」
 何を言っているんだ? 私は混乱する。確かに彼は私の腕をつかんでいたが、どう見てもあれは襲われているとは言わないだろう。
 そこまで考えて、私はさっと背筋が寒くなるのを感じた。
 ――そういうことか。
「ごめんね、間に合わなくて。でも、きっとあれなら正当防衛が成立すると思うよ。それに――」
 空也は晴れやかな笑顔で問いかけてくる。
「どんなことになっても、冴夏はずっと僕のそばにいてくれるんだよね?」
 頭が、くらりとした。
 倒れかかった私は、空也に抱きしめられる形で支えられる。頭を彼の胸元にもたれさせる体勢になった。
「…………そう、ね」
 涙で頬を濡らしながら、私は震える吐息で告げた。
「ずっと、いっしょにいるね……」
「うん、いつまでもいっしょだよ。離れないでね」
 空也が、私の身体をぎゅっと深く抱きしめ、耳元にささやきかけてきた。
「僕もずっと、離さないから」
 優しげな声が、私の心を凍え上がらせる。
 ふと脳裏に、幼い頃の情景が浮かんでくる。よく遊んだ幼なじみの男の子。けれど成長するにつれて自然と疎遠になってきて、彼女ができた幼なじみを遠くから眺めながら、小さい頃とは違う複雑な感情を育てた中学時代。当時の私は、幼なじみの少年と付き合い出した綺麗な女の子を、確かに妬んでいた。
 そう、私は幼なじみの男の子が好きだった。いつも笑顔を絶やさない彼に惹かれていた。
 でももう、何もかも戻りはしないのだ。
 壊してしまった空也の、その腕の中で、私はただ自分のためだけに涙を流し続けた。

<了>





 この話のタイトルである「Sentimental Egoist」という言葉は、サークル内での雑談から生まれたものです。
「SEって何の略だったけ?」
 という他愛もない疑問から始まった会話。
 もちろん本来SEというのは「System Engineer」や「Sound Effect」の略語なのですが、みな思い思いの「SE」を創作していきます。
「Sonic Empire」
「Super Emotion」
 そして、「Sentimental Egoist」
 私はその何ともいえない響きに惹かれて、発言者に「それをタイトルにして話を作って良いか」と尋ねました。彼女は快く承諾してくれました。
 こうして、「Sentimental Egoist」という物語は生まれたのです。

 物語を生み出すきっかけとなってくれた発言者に、本作品を丁寧に読んで様々なアドバイスをくれたサークルメンバーに、そしてここまで読んでくださった皆様に、心より感謝申し上げます。

めしや

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