「ガリヴァー旅行記」についての徒然考察眼鏡な人
ファンタジーの本場といえばヨーロッパ、特に其の全域を俯瞰する立場として歴史を刻んできたイギリスである。古くは「アーサー王伝説」、新しくは「ハリー=ポッター」とイギリスではファンタジーの名作といわれる作品が数多く存在する。これらの名作ファンタジーにはドイツやフランスを始め、大陸の多くの物語、伝承の影響が見られる。この理由を探れば、大陸から隔絶された島国として大陸の文化を吸収し、独自の文化を醸造していたとともに、大航海時代に世界に市場を形成していたという地政学的・歴史的な考察が可能であろうが、ここでは本論の論旨と逸脱するので敢えて割愛する。要するに、イギリスには秀逸なファンタジーがあふれているのである。 今回、私はイギリスのファンタジーの中でも特別にオリジナリティに富んだ一作であると私が考える「ガリヴァー旅行記」について多少なりとも偏ったブック・レビュウをしつつ、この作品のテーマについて私なりの考察を試みたいと思う。 「ガリヴァー旅行記」は一七二六年にジョナサン=スウィフト(一六六七〜一七四五)によって発表された。巨人国や小人国など様々な人間、もしくは人外のものが住まう世界で主人公のガリヴァーが様々な体験をするという話は誰もが幼い頃に親しんだに違いない。たとえば小人国で体を地面に縛り付けられているガリヴァーの姿などは読者諸兄の記憶に残っていることだろう。しかし、そのような童話的なイメージの物語とは裏腹に、子ども向けの脚色がなされていない原作は筆者の暮らしたイギリスの社会・政治に対する批判や人間そのものへの憎悪・風刺に満ちた作品であるといわれている。 確かにこの作品を読むと、作品全体にわたって『人間の偉大さなんてものも、ここにいるまるで虫けらみたいな連中にさえ真似されるのだから、考えてみればつまらないものだ』((1))などと淡々とした調子で人間の愚かしさを描いており、本編後の訳者のつけた註には作者が暮らした当時のイギリス社会に関する皮肉表現が軒を連ねている。例えば、小人国・リリパット国では卵を小さな端で割らねばならないとされ、大きな端で割った者は処罰されるという法律が存在するが、これは註によるとプロテスタントのみが公職に就けるという審査法をあらわしたものだという。つまり、暗喩表現を用いることで当時の社会や人間を皮肉っているのだというわけなのである。 しかし、今回この稿を書くに当たって本作品を読了した際、私が感じ取ったのは、それら社会批判や人間への風刺だけではなく、拭いがたい人間社会や人間そのものへの愛情であった。 本作品で主人公のガリヴァーは巨人や小人、馬など人外のものが住まう様々な世界(一部普通の人間も住んでいる場所もある)を旅し、様々な体験を経て故郷のイギリスに帰ってくる。そして、その滞在した国々の殆どで特異な存在として扱われ、ガリヴァーはそこの住人に嫌悪感か好感のどちらかを持つ。 すると気づくのは住人に対して嫌悪感を持った際、その嫌悪の対象となるものの要素が人間の行為に含まれる要素であるということである。例えば第一篇「リリパット国渡航記」では、小人国で独占欲を出す国王を嫌悪するが、それは実社会で、つまり現実の人間の社会に於いても同じ状況が生まれうるものなのである。また逆に、訪れた世界の住人に好感を持つのは第四篇「フウイヌム国渡航記」においてのみであるが、そこでは住人が、人間の持つマイナス面、例えば嫉妬や嘘などを知らず、高潔で理性的な生活を送っていることが、ガリヴァーの好感を誘っている。 ここまでで考えると、「ガリヴァー旅行記」は通説通り、単なる人間嫌悪・人間風刺の作品のように思える。しかし、はたしてそのように一意的に決めることができるのであろうか。 なぜなら、ガリヴァーはまず訪れた国の殆どにおいて、祖国イギリスの話をしたり、人間としての常識に基づいた行動を行なったりしているからである。 たとえば、ガリヴァーが見世物のように軽く扱われ、彼が嫌悪感を持った巨人国「ブロブディンナグ国」に於いても、前述した好感を持った馬の国「フウイヌム国」に於いても、イギリスの政治、社会に言及し、祖国を罵倒されるとガリヴァーは怒って反論を試みる。例えば巨人国において巨人国の王にイギリスを馬鹿にされたガリヴァーは『怒りを覚え、顔色が何度もかわ』((2))り、『我が祖国は…(中略)…世界の誇りにして羨望の的、に他ならな』((3))いと、それまで批判し、嫌悪していたはずの祖国を弁護しているのである。これは祖国という人間社会への愛着に他なるまい。 対照的に、人間社会とは比べ物にならないほどに高潔な社会であるとガリヴァーが位置付け、永住までをも願った馬の国「フウイヌム国渡航記」においては、人間とは全く違った慣習・文化を持つその住人に惚れ込み、彼は完全に人間社会を捨てようと決心する。しかし、それでも別れの際には馬の『主人の蹄に接吻』((4))するという行為を行なうことで敬愛の情を示すなど、人間の慣習を捨てきれずにいるのである。 これらのことは、人間社会への愛着であるとか人間であることを捨てきれない人間への愛しさを表現したものと私には思えるのである。なぜなら祖国と言う人間社会について弁護を行なうという行為は、そこへの帰属意識の表れであろうし、人間の慣習を捨てきれないということは、人間の悲しい性ではあるかもしれないが、敢えてそれを表現することで、逆に裏返しとしてそれへの愛情を示すものと見ることもまた可能であろうからである。 そして何より、本作品でガリヴァーはいかなる国に行こうとも、その章の終わりではその訪れた国の住民から何らかの形で疎まれ、祖国イギリスに、つまりは人間社会に帰ってくるというものとなっているのである。例えば小人国「リリパット国」からは食料的・軍事的問題で疎まれ、馬の国「フウイヌム国」にはその存在を社会的・倫理的問題とされて疎まれ、イギリスに帰る。これは、いかに人間が人間社会から逃げ出そうとしても、結局はそれで生きていくことなどできないということを言いたいように私には思えるのである。 そのように考えると本書は社会批判や人間のマイナス面を風刺しているのみの作品と言うよりも、むしろ人間の愚かしさや醜さを書くことによってかえってそれが故の人間の愛おしさを表現したかったものと思えるのである。 加えて本書が著された時期を考えてみると、イギリスで産業革命が起こらんとする、まさに近代化の走りの時期であることに気づく。その時代にあってスウィフトはそこで失われていく人間性に危機感を持っていたとも考えられないだろうか。近代化の主な要素とされている科学の発展や資本主義の発達が効率や合理性を重視し、人間性を失わせるということは現在よく言われていることだが、そのことに気付き、社会に知らしめんと警鐘を鳴らす、まさに先見の明に満ちた作品がこの「ガリヴァー旅行記」なのだと言えなくもない様に思えるのである。 すると、ガリヴァーが惚れ込んだ馬の国「フウイヌム国」は科学が発展しているという近代的な側面を持っている反面、貨幣が存在していないなどと原始的な側面を持つ「ガリヴァー旅行記」作中で最も特殊な国であり、同時に前述したようにガリヴァーの評価が最も高い国でもある。しかし、「人間」を忌避し、「人間的な」ものを否定したガリヴァーの賞賛するその「フウイヌム国」のスペリングは「houyhnm」で、ラテン語の「humanum」つまり「人間的である」という形容詞に字面のみならず発音が酷似しているのである。十八世紀に生きた教養人であるスウィフトには当然ラテン語の知識があったであろうし、そこに作者の作為が働いたと見てもあながち間違いではあるまいが、人間嫌悪といわれてきたこの作品中最も主人公の評価の高い国に「人間的な」という意味がこめられているのである。 考えすぎかもしれないが、私にはこの「フウイヌム国」にガリヴァーが惚れ込んだのも、そこに文明化に汚れていない最も純粋な「人間性」を見たからに思え、またそれこそが作者スウィフトの最も言いたかったことであるように思えてならないのである。 以上ここまで好き勝手に「ガリヴァー旅行記」について考察を試みてきたが、結局これも私なりの読み方に従って導き出された帰結に他ならない。結局書物とはそれ自体は変化するものではないが、読み手によってその性格は大きく変動するものであるため、読者諸兄が自分なりの結論を導く為に秋の夜長に本作品を紐解かれることを心から願ってこの稿を終わりたい。 ●参考文献 スウィフト作 平井正穂訳 「ガリヴァー旅行記」 岩波文庫 ● 引用文出典 (1)参考文献 一四一ページ 一三行目 (2)参考文献 一四二ページ 一行目 (3)参考文献 一四二ページ 三行目 (4)参考文献 四〇二ページ 一六行目 |