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2003年度第二期リレー小説
「蘇る大森林 〜ノエリットの奇蹟〜」第29回            超蜜柑
『黒と白と……』(一人修羅道は寂しいので本気で好き勝手やってます、ゴメ ン)


 爽やかな朝日が眩しい過去の森の朝。
(私はどうしてこんな旅をしているんだろう……)
 眼前のグディアルメフの面々をぼんやりと眺めながらフリエは自問した。彼ら は皆例外なく満身創痍で、両肩で息を吐くウィルド以外は地面に倒れ伏して身動ぎ一 つしない。普段の彼らの生命力を考えれば、それはあり得ないことだった。が、現実 にあり得ないことが起こっている。フリエは静かに頭を振り、傍らで同じようにくた くたになって寝転がっているノエルを見やった。フリエは彼らから視線を外すと、 すっかり殺風景になった森の様子に目を向けた。
 森は惨憺たる有様だった。昨日――つい数時間前まで木々が生い茂り、空さえ 見ることの叶わない暗い森は、すっかり見晴らしが良くなっている。周囲には焼け落 ちた樹木や焦げた下草の燃え滓が無惨に転がり、焦臭い空気がこれでもかと言う程に 充満している。その光景からして思考停止に陥っていたフリエは、何とか現実を取り 戻そうと己自身の身体を見やった。伝説的服飾業、第14使徒マックンゼルによって デザインされた可愛らしい闇の巫女の衣装は今やすっかり煤まみれだ。とは言え、元 が黒い為、それほど目立たない。次いで自身の手を眺める。ここも煤で真っ黒だ。さ て、どうしてこのような事態に陥ったのか、フリエは昨日から未明に掛けて起こった 出来事をゆっくりと回想した。
 事の顛末はこうである。
昨日の夜から始まった「闇の巫女聖誕祭」は深夜に入って最高潮に達した。普 段、絶対的物資不足から禁欲生活を余儀なくされていたグディアルメフの面々は、こ こぞとばかりに戦車に貯蔵していた秘蔵の食物、酒などを大盤振る舞いした。彼らの 喜びは凄まじく、フリエの引き攣った笑みなどどこ吹く風、てんで好き勝手に呑むわ 踊るわ、終いにはそれぞれが木や暇なフリエやノエルに向かって自分の生い立ちを語 り始める始末。当然、彼らの苦労話など眼中にないフリエは全く馬耳東風の状態で聞 き流していたが、運悪く近くにいたノエルが目を輝かせて聞くので、そのとばっちり を受けて延々と聞かされる羽目になった。その時フリエが聞いた単語はと言うと「頂 上決戦」「金縛り」「世間の目」など一見して一体何のことやら理解に苦しむものば かりであった。
 そうした苦痛の時間から解き放ったのが、グディアルメフ宴会部長の名を欲し いままにしていた、伝説的大道芸人だった第11使徒「イェルストン」である。彼は 「真の大道芸とは何ぞや」という根元的命題にぶつかり、過去の森に程近い山中にそ の身を隠すも、ウィルドらに発見されて使徒になったという経緯を持つ。使徒になっ てからの彼の成長は目覚ましく、この機会をずっと窺っていたイェルストンは早速使 徒全員を集めて大道芸を開始した。火の輪潜り、木の蔓を利用しての空中ブランコ、 ジャグリングに皿回し……ありとあらゆる大道芸を繰り出し、喝采を浴びるイェルス トン。元来祭好きのグディアルメフの面々はこの彼のパフォーマンスにボルテージは 際限なく上がっていった。気を良くしたウィルドはイェルストンに向かって「では、 貴様の最高の芸を我々に見せてみよ!」と言ってしまった為に、イェルストンは長ら く封印していた禁断の技に手を出すこととなった。その技こそが彼が伝説的大道芸と 呼ばれるに至った芸「ファイアーダンス」である。両端に炎の点いた棒を自在に操 り、空中で華麗な曲芸を繰り出す伝説の技。大陸広しと言えどもこの技を実践できる のは彼だけであった。やがて最後にして最大の芸が始まり、イェルストンは気合いを 入れた。気合い一声、棒を天高く放り投げ、自らも空へと飛翔するイェルストン!  彼は口に含んだアルコールを霧状にして吹き出し、自らの周囲に炎の幕を造り出す。 炎に彩られた彼の姿は非常に幻想的で美しく、その場にいたグディアルメフの面々が 身を乗り出した。この時ばかりはあまりの派手さにさすがのフリエも目を奪われてし まった。そして最後の見せ場、棒を空中でキャッチしつつ火炎と共に地に降り立ち、 華麗にポーズを決める所だった。
 が、そこで悲劇は起こった。森という地形が災いしたのだ。イェルストンの投 げた棒は途中で枝にぶつかり軌道を変えた。予想外の棒の動きにイェルストンのバラ ンスが一瞬崩れる。彼は驚愕の表情を顔に貼り付けたまま、不自然な角度で地面に墜 落した。
 火炎を自ら纏いながら。
 その後は一瞬だった。棒に点火されていた炎は地面に落ちると同時に草に燃え 移り、舐めるように一気に地面を走った。イェルストンは墜落すると同時に転がって しまい、手近にあった樹木に激突。グディアルメフのローブは燃えにくく、イェルス トン自体が用心の為に不燃物を塗布していた為に彼は火傷を免れるが、その代償と言 わんばかりに樹木に引火。炎は漆黒の闇を照らそうとすぐさま木々に燃え広がり、鬱 蒼と生い茂る葉に襲いかかった。それまでは焚き火だけのごく僅かな灯りが、一瞬に してまるで真昼に変わったのではないかと錯覚する程に明るくなった。
 この事態を最初に理解したのはやはりウィルドだった。彼は泥酔状態にも関わ らず、すぐさま使徒達全員に命じて消火活動に当たらせた。自分は呆然としているフ リエとノエルを安全な場所まで避難させ、それから再び火災現場へと戻っていった。 この時、ウィルドの身を案じたノエルが勝手に付いていくことになるが、ウィルドは 気付かなかったようだ。
 グディアルメフの面々はここぞとばかりにチームワークを働かせて迅速に消火 活動を行った。まずウィルドは司令塔となり、全ての使徒の間を走り回り、暇があれ ば自らもローブで叩くなどして消火に当たった。第10使徒動物学者ロイストル、第 13使徒元医者チェンリキ、第15使徒狩人ウェンスターが被災地の動物の救助と誘 導を行った。動物について知り尽くしている彼らは実に効率的に動物達の避難を行 い、倒れてきた大木に挟まれた子鹿などを救い出したりと八面六臂の大活躍を見せ た。第9使徒元王都聖騎士団部隊長ロースティンは錫杖に仕込んだ刃とその居合いの 技術を活かして火が燃え移った枝の伐採。次から次へと燃え移る炎に先んじて枝を切 る彼のお陰で火災範囲は最小限に食い止められた。第3〜7使徒飛脚のストゥンラッ ド五兄弟は近くの湖から水を運んで来ることにしたのだが、一つ問題があった。彼ら には水を入れる器がない。しかも火災の勢いは凄まじく、ちまちまと水を掛けていた のでは火災は止められない。そこで第16使徒、伝説の料理人クエヤレルヤは自らの 包丁の腕前によって戦車を分解、巨大な器へと組み立て直した。これを持ってストゥ ンラッド五兄弟は疾走し、大量の水を保有することに成功した。しかし、こうした活 動も第12使徒ガトバギの功績によって生み出されたものだということを忘れてはな らない。彼の地理学による的確な指示が無ければ、火災はもっと広がっていたことだ ろう。その他の使徒もそれぞれが自分の能力を存分に発揮して消化活動を行った。因 みに祭祀長グルグスは一人雨乞いの儀式を執り行っていたが大した効果は無く、また ノエルは必死に後ろ足で土を掛けていたが目立った効果をあげなかった。
 しかしいかに彼らの体力が常人に比べて優れているとは言え、夜通し行われた 消火活動は過酷なものであった。まず全員が火災現場の熱波によって軽度の火傷を負 い、限界を超えた作業に疲労度はピークに達した。一人、また一人と火災現場に倒れ ていく使徒達。ウィルドは気力だけで彼らを助け起こし、安全な場所に運んでいく。 こうした地獄絵図の中、最終的に立っていられたのはウィルドとストゥンラッド五兄 弟だけである。ロースティン、ウェンスターは消火活動の最中に負傷し、撤退を余儀 なくされた。そして長かった夜が終わり、白む空と共に朝がやってきた頃、グディア ルメフの体力の限界を示すと共に全ての消火活動が終了したのだった。
 と、ここまでを回想してフリエは胸中で大仰に溜息を吐いた。そして先程脳裏 に過ぎった思いを口に出す。
「……私はどうしてこんな旅をしているんだろう」
あまりにももっともな疑問にフリエは空を見上げた。
 空は、この上もなく青く、澄んでいた。この蒼空の下の多くの人々の行いなど 構いもせずに。白雲はゆったりと流れ、頬を撫でる風は柔らかく暖かい。そんな天の 営みには気付かず、遙か地上ではグディアルメフの面々がずるずると這いずりながら ウィルドの元に集まりつつある。
「ど、どうやら終わったようだな……皆は揃っておるか……?」
 ウィルドの言葉を受けて錫杖を杖代わりにグルグスが立ち上がる。周囲を見回 し、軽く礼を取る。
「……祭祀長グルグス以下、全員おりまする。しかし……」
「うおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
 グルグスが言葉を濁すと、遠く離れた場所から慟哭が聞こえた。グルグスがや りきれない、といった様子で頭を振った。ウィルドが訝しげにグルグスを見やった。
「第14使徒マックンゼルにございます」
「私の……私の衣装が……ノエルの為……一昼夜を費やし、全身全霊を掛けた我 が作品が……只の灰に……ううぁぁぁぁぁぁぁっ! 何故 だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 その慟哭にグディアルメフの面々が俯いた。絶叫し、涙を流し、肩を震わせて 地面を叩くマックンゼルに掛ける言葉を誰も思いつかないのだ。ウィルドは沈痛な面 持ちでゆっくりと彼の元へ歩み寄ると、彼の肩に軽く手を置いた。
「許せ……マックンゼル」
「……教主ウィルド」
呼ばれ、マックンゼルが顔を上げた。涙と鼻水と涎でぐしゃぐしゃになった 顔。まるで少年のようなマックンゼルの顔を優しく拭きながら、ウィルドは大いなる 憂いに満ちた瞳に彼の姿を映し出す。まるでこの瞬間を焼き付けようとするかのよう に。
「このウィルドの力が至らなかった故……お前にこのような辛い思いをさせてし まったな……許せ、マックンゼル」
 ウィルドはそのままマックンゼルを抱き寄せ、優しく抱擁する。その優しさと 温もりがマックンゼルの傷ついた心を静かに撫でてくれた。マックンゼルは両肩を更 に震わせ、ウィルドにしがみついた。その様はまるで子供が母親に安らぎを求めるか のようであった。
「教主……教主ぅぅぅぅぅぅぅっ!」
 マックンゼルは泣いた。子供のように泣いた。人目も憚らず、ただわんわん泣 いた。その涙が流れる度に、マックンゼルは強くなっていく。その慟哭が続く度、彼 の心は優しさを覚えていく。そんなマックンゼルを、ウィルドは泣き止むまで抱きし めていた。
 それに呼応して、グディアルメフの面々も次々ともらい泣きを始めた。グルグ スやロースティンなどは片手で顔を覆いながら静かに涙を零した。ストゥンラッド五 兄弟に至っては両手で顔を覆って大声で泣き出した。
 遠くからその様を眺めていたフリエには全く理解できない光景であった。大の 大人……しかも男同士で抱き合って何が楽しいのかと。第一、たかが兎の為の衣装で はないか。また作ればいいだけだ。どうしてその程度の事でいちいちこの連中は大騒 ぎできるのだろう。
(……どうして、そんな馬鹿な事でいちいち騒げるの?)
 フリエは心底面白くなさそうにそっぽを向いた。すると傍らで寝転がってい た、煤だらけで真っ黒のノエルが起き上がった。ノエルもまた、多くのグディアルメ フの面々と同じように目尻に涙を溜めている。フリエは不意にめが合ってしまったこ とを後悔した。
「……哀しいですね、フリエちゃん」
 ノエルが寂しそうにぽつりと呟いた。それが自分に向けられたことを苦々しく 重いながらも、フリエは引き攣った表情で無理矢理辛さを演出すると軽く頷いた。
「そ、そうね……」
「マックンゼルさん……昨日一生懸命ノエルの為の衣装を作ってくれました。ノ エルのサイズを一杯測って……デザインの為にたくさんスケッチして……ノエルは途 中まで見てましたけど……本当に一生懸命でした」
 嗚咽混じりにノエルがぼそぼそと語り出した。フリエは正直そんな話はどうで も良かった。他人の努力など知ったことか。
「出来たら……ノエルが着たらきっと可愛いぞ、って凄く楽しそうに言ってくれ ました。ノエルは……ノエルは……」
 ノエルが前足で器用に涙を拭った。それから、フリエに擦り寄った。
「大事にして下さい、その服。マックンゼルさんがとっても一生懸命に作ってく れました。大事に……」
 ノエルは身体を擦り寄せながら何度も何度も繰り返した。フリエはその言葉の 半分も聞いてなかったが、いつしか視線は静かに抱き合うウィルドとマックンゼルに 向いていた。
(どうして服ぐらいでそんなに真剣になれるの? 馬鹿みたいじゃない、どうし てそんなことの為に一生懸命になれるの?)
 知らず、フリエは唇を噛み締めた。気に入らない。眼前の光景が気に入らな い。フリエは口の中でぶつぶつと呪文を唱えると、意識をウィルドに集中にさせた。
(鬱陶しいのよ! 私の目の前で下らないことばかりして!)
 フリエの最も得意とする魔術だ。このままウィルドの意識をすり替え、下らな い茶番を終わらせようというのだ。が、術を掛ける瞬間、フリエの脳裏にある光景が 過ぎった。
『うむ、これは見事だ! これならば闇の巫女に相応しいというものよ。よく やったな、マックンゼルよ!』
『ははっ! このマックンゼル……この日が来ることを夢にまで見ておりました 故、入団以来5年の歳月を費やして完成させました! この服が着られる日が遂に来 ようとは……このマックンゼル……感激のあまり涙が……』
『泣くでない、マックンゼル。貴様の働き、このウィルド、しかと目に焼き付け たぞ。これからも精進に励めよ……。どうだ、フリエよ。素晴らしい出来だろう!  このような形でお前の晴れ舞台を見ることが出来ようとは……父は、父は……うぅ』
(大の大人のくせに……泣いてばかりでみっともない……)
 フリエは冷笑していた。つまらない事に情熱を注ぐ父も、それに追従する馬鹿 な使徒達も。しかし、フリエは眼前で行われている光景を心底憎むことは出来ないで いた。不意に、目が細くなる。フリエはそのまま、呪文の詠唱を止めた。
(嫌いなはずなのに……こんな、下らないこと……でも)
 心のどこかが少し痛んだ。自分の知らない感情が、ほんの少し疼いたような気 がした。フリエはその後、術を掛けることなく静かにその光景を見守っていた。
 やがてマックンゼルが落ち着くと、今度は別の箇所から絶叫が聞こえた。この 火災の原因、イェルストンである。
「うぁぁぁぁぁぁぁ! 私は……何ということを……この手で、この手で愛する 森を焼いてしまった! 私は……私は……教主!」
 苦悩していたイェルストンは顔を上げると縋るようにウィルドを見上げた。そ して神妙な面持ちでウィルドに背中を向けた。ウィルドが訝しげに首を捻った。
「イェルストン?」
「このような醜態を晒しては、とても生きてはおれませぬ! 第11使徒イェル ストン、自らの不始末は己の命で以て償う所存にございます!」
 全身をぶるぶる震わせる彼を見ながら、ウィルドはつかつかと近付いた。小さ く震える彼の正面に回り込むと、ウィルドは驚愕の表情を浮かべるイェルストンの顔 面を思い切り殴った。
「馬鹿者ぉ! 命で償うだとぉ! 貴様、一体何を考えておるのだぁ!」
「し、しかし……教主! これほどの罪、私ではとても背負い切れませぬ! 森 に、グディアルメフに対して申し開きが出来ませぬ!」
 イェルストンの物言いに、ウィルドのこめかみに青筋が浮かんだ。
「このたわけがぁっ!」
 先程よりも余程からの入った拳がイェルストンを吹き飛ばす。ごろごろと焦土 を転がりながら、イェルストンは呻き声をあげていた。
「貴様……己一つの命を犠牲にすればこの事態を納められると思ったのか! こ の大たわけが……この罪は貴様の命などでは償いようもないことを知れぃ!」
 雷撃のような怒声が響き、イェルストンの身体がびくんと震えた。惚けたよう に顔を上げる彼に、ウィルドは涙を流しながら檄を飛ばした。
「……我々がしでかした事は、貴様一人の命を捧げたところで消せはせぬの だ……。我らに出来る事はこの罪を背負い、一生を戒めて生きていく他はないのだ。 それがこの火災で命を失った者達へのけじめの付け方よ……。イェルストン、貴様が 本当に罪に対し、罰を求めるのならば、生きてみせぃ! その罪を己が胸に刻み込 み、苦痛を抱いてその一生を生き抜いてみせぃ!」
「教主……」
 イェルストンが、目が覚めたように呟いた。ウィルドは片膝を付くとイェルス トンの肩に手を置いた。
「それにな、イェルストン……誰が貴様一人に罪を背負わせようと言うのだ。こ のウィルドが貴様にあの芸をさせたのだ。貴様が罪を背負うと言うならば、このウィ ルドも罪を背負おう。一人では抱え切れぬ罪も、二人ならば幾分楽になるではない か」
 ウィルドはイェルストンを立たせ、尚も続ける。
「お前一人にはさせぬ……このウィルドも共に修羅道を歩もうではないか。いつ か貴様と私の罪が許される、その時までな……」
 ウィルドはイェルストンを抱き寄せる。イェルストンの顔が見る見る内に歪ん でいく。そして、大声で泣き出した。
「き、教主ぅ! わ、私が……私が間違っておりましたぁ! このイェルスト ン……力の限り……精一杯、生きていきます!  うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「うむ……共に歩もうではないか。辛く険しく……しかし友と共に」
 ウィルドにしがみつくイェルストンの心を癒すかのように、グルグス以下残り の使徒達が誰ともなく拍手をする。それはすぐに全員に伝わり、大きな拍手となっ た。皆一様に目尻を拭い、目の前の光景を笑顔で眺めている。
 少し遠巻きにしていたフリエとノエルは拍手こそしなかったものの、特に邪魔 することも無かった。
「……良かったですね、イェルストンさん。元気になって……」
 ノエルがフリエに同意を求めるように上目遣いに尋ねてきた。急に話題を振ら れたフリエが取り繕ったように慌てて返事をする。
「そ、そうね、ノエルちゃん。……でも、正直そろそろ出発したいんだけ ど……」
 いい加減、これ以上グディアルメフの慰め合いに付き合う気はなかった。フリ エが悟られぬようにさりげなく出発を勧めると、ノエルはじぃっとフリエを凝視し始 めた。フリエの頬に一筋の汗が流れた。
「ど、どうしたの?」
「……真っ黒です」
「え?」
 突然のノエルの言葉が理解できず、フリエは思わず言葉を返した。ノエルの透 き通った瞳にフリエの顔が映っている。
「フリエちゃん、お顔が真っ黒です」
「え? あぁ、火事の時、煤が付いちゃったから……」
 フリエは顔に手を当てて答えた。、真っ黒だと言うノエルも真っ黒なのだ。ノ エルはそれを理解しているのか、急に走り出すと、ウィルドの元へと向かった。フリ エが何なんだろうと思っていると――
「ウィルド様!」
「おぉ、ノエルか。ふむ、いつもの白い身体はどうした? まるで燃えたかのよ うだぞ」
「煤で真っ黒になっちゃいましたぁ。だからぁ、フリエちゃんと一緒にお水で 洗ってきたいです」
 ノエルがいつものおねだりを始めると、ウィルドはふぅむと唸ってからフリエ を見やった。確かにフリエも真っ黒だ。
「まぁ、良かろう。夕べからの消火活動で皆もくたくただ。出発は休憩後にする から向こうの湖で洗ってくるが良かろう」
「ありがとうございますぅ!」
 ノエルは嬉しそうに叫ぶと、フリエの元へと戻った。
「フリエちゃん! あっちの湖で身体を洗いましょう! 真っ黒はちょっと嫌で す」
「えっと……そうね」
 フリエも煤まみれのままではいたくない。素直に応じるとノエルと共に湖へ向 かうことにした。祖の後ろ姿を見送りながらグルグスがウィルドに呟いた。
「教主……近場とは言え、フリエ様とノエルだけで大丈夫でしょうか?」
「ぬぅ……確かに心配ではあるが、フリエの水浴びに全員で付いて行くわけにも いかぬであろう、無粋でならぬわ。それにあの二人とて、この森がいかに危険かぐら いは承知しておろう。何かあればすぐに我らの元に戻ってくるだろう」
 ウィルドは腕組みしながら静かに目を閉じた。内心は心配で心配で堪らないの だが、フリエを煤まみれにしておくには忍びなかったし、かと言って娘の水浴びに使 徒を引き連れて行くわけにもいかない。
「……父親とはかくも辛いものなのか……」
 ウィルドは大仰に嘆息すると、他の使徒同様に腰を下ろし、休憩することにし た。
 焦土と化した領域を少し進むと、すぐに森はフリエ達の頭上を覆い、青々とし た草がフリエの膝を隠す。先程の焦土より幾分歩きにくくなった地面を苦労して歩い ているフリエに比べ、当然ながらノエルは軽快そのものだ。こんな時グディアルメフ の戦車があれば、と思ってしまい、フリエは首を大きく振って考えを打ち消した。
「もうすぐですよぉ」
 ノエルはフリエの足下を回りながら言うと、前足で器用に道の先を指差した。 頭上を覆う葉のせいで先が真っ暗に見えるフリエにとって、本当にこの先に湖がある のかは疑わしいものだった。しかし、ノエルの嬉しそうな口振りからするときっとあ るのだろう。フリエは疲れているせいもあって、ノエルの言うことに反応せず、黙っ て後を付いていくことにした。
 その時だった――
(見つけたぞ!)
 茂みの中から小さな声が聞こえた。
「えっ?」
 その呟きを敏感に聞き取ったノエルがそちらを向いた瞬間――
 ガササッ!
 不意に茂みから小さな何かが飛び出した。それは恐ろしい速度でノエルの周囲 を駆け巡る。フリエはその奇妙な光景を目の当たりにしていたが、その何かがあまり の速度で動き回る為、姿を確認することが出来ない。
「わ、わ、わ……ひゃぁぁぁぁっ!」
 それはノエルも同じ事で、自分の周囲を高速でぐるぐる回られて、目が回って きた。やがて小さな悲鳴と共にノエルがふらふらと倒れると、その小さな何かはノエ ルを抱えて茂みの中へと姿を消した。後に残されたフリエは一瞬の出来事に何が起 こったのか分からず、事態を理解するのに数舜の時を要した。
 そして、ノエルが何者かによって攫われた事を確信し、慌てて周囲を見回し た。突然の出来事に思考がまとまらない。程なくして、ウィルドの顔が脳裏に過ぎっ たフリエは来た道を急いで戻ることにした。
「はぁはぁ……何が、どうなってるの?」
 フリエは事態の理不尽さに悪態を付きながら、グディアルメフの休憩地を目指 して走った。
 一方グディアルメフが通常使用していた道では、ジークとフリエは彼女と同じ 顔を前に驚愕の表情を浮かべていた、突如現れた双子の妹、ウリスを前に。対するウ リスは意外にも軽い微笑みまで浮かべて二人と向き合っていた。沈黙で以て再会を果 たした二人だったが、先に口を開いたのはウリスの方だった。
「久しぶりね、フリエ姉さん」
 10年以上も音信不通で、自分の娘を寄越した妹が今目の前に立っている。言 いたいことは山程あるのだが、どれから尋ねればいいのかうまく考えがまとまらな い。
「ウリス! あなた今まで一体どうして……」
「待って、姉さん。色々と聞きたいことがあるでしょうけど、ゆっくりと話しま しょう」
 ウリスは相変わらず笑みを絶やさない。その笑みには小馬鹿にした様子はな い。だが、再会を喜んでいるようにも見えない。もっと何か別の、異質な何かを感じ る。フリエは胸中で深呼吸をし、思考を整えるとウリスの申し出に軽く頷いた。
「……分かったわ。でもその前に……」
 フリエはちらりとジークを見やった。さすがは年長者ジーク、そこは心得たも ので、普段の穏和な表情のまま軽く頷いた。自分は聞いているから話を続けて下さい という意思表示だ。ここにアイゼンがいなかったことをある意味で安堵しながらフリ エはウリスに向き直った。
「……過去の森に来ればあなたに会えると思っていたわ」
 会話を掴むようにフリエは言った。ウリスはそれを聞いて肩を竦めた。
「さすがは姉さん。『ヴェリルザの歴史書』の第一層の暗号を解いたのね」
「通常の暗号に自分の居所を織り交ぜるなんて、手の込んだことをしたわね」
 フリエの言葉にウリスは口の端を吊り上げた。
「……本当にさすがね。第一層だけでも難解なのに、そこに紛れさせておいた私 のメッセージに気付くんだから。実際骨が折れたわ、あの中身を変更するには」
 ウリスの言葉に邪気はない。が、フリエは少し険しい表情を見せた。
「その点は色々と聞きたいこともあるけど、取り敢えず別の質問を先にするわ。 何故、失踪なんかしたの?」
「その辺は私の夫から聞いてない?」
 ウリスは腰に手を当て、軽く胸を反った。
「……あなたの口から聞きたいのよ。本当に父の研究が悪用されていたかとか、 七賢人の書についても色々とね」
「そうね……どちらかと言うと悪用云々は付属に過ぎないわ。本質的な所は意見 の相違にあったのよ、特にその……七賢人の書についてね。その点はウィルドから もっと聞いてると思ったけど……」
 ウリスはここには存在しない七賢人の書をめくるかのように手を動かした。フ リエは一歩前に踏み出した。
「分かったわ。この話はまたにしましょう。最後に聞きたいけど、どうして自分 の娘に七賢人の書を渡して、私に探させるような面倒な真似をしたの?」
「その必要があったから……と言う理由ではダメかしら?」
「ウリス!」
 フリエの一喝にウリスはばつが悪そうに俯いた。
「今はまだ言えないのよ。言ったところで姉さんは共感してくれないわ。理解で きたとしてもね」
 ウリスはそれだけ言うと、フリエに近付いた。
「でも姉さん。折角妹と再会できたんだからもっと喜んで欲しいわ」
 姉に近付こうとするウリスを見て、フリエは身構えた。ウリスが訝しげな表情 を始めて見せた。
「姉さん?」
 フリエは頭を振った。
「……本当は私も喜びたいわ。でもね、ウリス。それはあなたが聖者の使徒の仲 間でなかった場合の話よ」
 フリエの発言を聞いて表情が変わったのはウリスとジーク。ジークは単純に驚 いているようだが、ウリスは驚きの中に愉悦の念が見られる。嬉しそうに口の端を吊 り上げたウリスをフリエは硬い表情で見やっていた。
「どういうこと? その聖者って?」
「惚けなくていいわ、ウリス。あなた、この前現れた聖者の使徒と仲間か……そ うでないにしても協力関係にあるでしょう?」
「根拠があるのかしら?」
 ウリスが挑発的な眼差しを向けてくる。フリエが軽く咳払いをし、ウリスを正 面から見据えた。彼女が議論する時の構えだ。
「まず第一に、あなたは確実に聖者の使徒が使役していたグディエカーリオ…… つまり破壊神グディシャルーフの存在を知っていた。これはヴェリルザの歴史書に書 いてあることで、ウィルドさんから確認済みよ」
「それだけでは私が彼らの仲間だという証拠にはならないわ」
 ウリスは冷笑した。フリエは態度を崩さない。
「第二にこの道よ」
 フリエは今自分達が立っている道を示した。ウリスが小首を傾げた。
「道?」
「ここはグディアルメフの人達が……ウィルドさん達がいつも使っている道よ。 あなたがウィルドさんの元からも失踪したのは8年前だと聞くわ。その間、あなたも この道を使っていたのならどうして出会わないの? 出会ってもおかしくないし、彼 らは色々と人間離れしてるから、あなたがいたとなればすぐに見つけられるし追い付 ける。考えられる結論は二つ。森から出て、別の地で暮らしているから。でもこれは 私に『ヴェリルザの歴史書』を送って寄越した時点でおかしいわ。つい最近森に戻っ てきたとしても、この私がここに辿り着くのがいつになるかは推測できないはず。つ まり、考えられるもう一つの結論。あなたは森のどこかに潜んでいた。この森に一人 でいるのは危険だわ。父が向かったルート……エンシャンルオートの断崖絶壁は幾ら 何でも使えない、ウィルドさんですら青ざめる絶壁を使用するなんて不可能よ。残る はファラリス君が知っているという道だけど……ファラリス君の年齢とあなたの失踪 時期を考えて、あなたがその道を見出すのは難しいと思うわ。更に言えばあの道を使 いこなせるかどうかも疑問だわ。つまり、あなたはこの道を使いながらもグディアル メフに出会わない何かを知っていたはず。そう、聖者の使徒がこの森の奥にいなが ら、今まで彼らと一度も衝突したことがなかったように」
 ウリスの目が段々と輝いてきた、まるで玩具を与えられた子供のように。
「他にどんな根拠が?」
「些細なことかも知れないけど、聖者の使徒の言動よ。聖者の使徒はウィルドさ んがその名を明かす以前から正体を知っていたわ。確かにあれだけ怪しい集団なら目 立つかも知れないけど、近郊の村の人間はおろか、森の入り口に澄んでいるジークさ んまで知らなかったマイナー教団よ。同じグディ神を信仰しているからと言ってそん なに簡単に看破できるなんて不自然だわ。事前に誰かがそのことを教えていたとしか 考えられない」
「……確かにグディアルメフについては知ってるわね、私」
「ここからあなたと聖者の使徒の関係は二つに絞れるわ。一つはあなたも聖者の 使徒から追われていて、七賢人の書を奪われないように私に託した。……でもこれは 不自然な解答よ。何故なら、聖者の使徒と敵対していた場合、グディアルメフから失 踪する必要がないからよ、それどころか寧ろ彼らの力を頼るべきよ。人格はともかく として、魔術で言えばウィルドさんは頼りになる人だもの。となれば、結論は一つ。 あなたが聖者の使徒と何らかのそれも肯定的な関係にあるということよ」
 言い終えてフリエはウリスの出方を窺った。話を黙って聞いていたウリスは軽 く肩を竦めた。
「やっぱり姉さんと話すのは楽しいわ。でも姉さん、聖者の使徒の言動について はそれじゃ断言できないわ。彼ら程の術者になれば占術にも長けているでしょう。グ ディアルメフと同様に占術を駆使すればその存在を理解することは容易いわ」
 フリエはウリスの言葉に鋭く食い込んだ。
「ウリス……今のであなた、完全に私の説を肯定したのよ」
「どういうこと?」
「どうして彼らの実力が分かるの、あなたに? グディアルメフの占術が古式占 術にまで連なっているのは知っていても、聖者の使徒までもそれに卓越しているなん て、彼らを知っていなければ分かるはずないじゃない?」
「……つまらないわね」
 途端にウリスが表情をを固くした。
「もう少し楽しく議論しようとしたんだけど……姉さんが相手だと結論が出るの が早いわ」
「つまり認めるということね」
「これ以上抵抗しても姉さんに全て論破されてしまうわ」
 違う。フリエは直感した。ウリスはわざと分かり易く情報を散りばめた。この 解答に行き着くように。最後の言葉もわざと看破されるように言った節がある。最初 から彼女は聖者の使徒との関係を隠すつもりなど無かったのだ。
「……それで、正解者には何か特典でもあるのかしら?」
 フリエはいつも使わぬ言い回しを使った。それに気付いたか気付いていない か、ウリスは再び笑みを浮かべると服の裏から一冊の本を取り出した。
「景品はこれよ、姉さん」
「それは!」
 ウリスが持っている朽葉色の本は――『ヴェリルザの歴史書』だった。
 ウィルドを筆頭に、グディアルメフの面々は薄暗い森の中を疾駆していた。ノ エルが攫われたという話をフリエから聞き付け、グディアルメフはすぐさまノエル捜 索を開始したのだ。幸い、動物の追跡に掛けては右に出るものがいないウェンスター がいた為、ノエルの痕跡を追うのは簡単だった。ただし、戦車を失った今、フリエは ウィルドに背負われている。その為、どうしてもウィルドの速度が落ちてしまい、グ ディアルメフは普段のペースを維持できないでいた。しかも信じられないことに、そ うしている間にもノエルの痕跡は薄くなっていく。つまり、相手の方が速度が速いの だ。
 業を煮やしたウィルドはロースティンとウェンスターの両名に命令を下した。
「ロースティン! ウェンスター! このままでは差が開く一方だ! 私のこと は構わぬからお前達は先行してノエルを探し出すのだ! 何があるか分からん、十分 に警戒して掛かれ!」
「御意!」
「お任せあれ!」
 二人はすぐに速度を上げ、ウィルド達から遠ざかって行った。ウィルドの背中 でフリエが呟いた。
「……あの、父さん。私、降りた方が……」
 娘の言葉をウィルドは一蹴する。
「ならん! ノエルが攫われた以上、何が起こるか分からん! そんな中にお前 を残していけるはずがないだろう! 心配せずとも、ウェンスターとロースティンが 先行しておるから見失うことはない!」
 喋りながら走るウィルドの息はさすがに切れている。当然だろう、夜通し消火 活動を行った後に子供一人抱えて走っているのだから。それでも走っていると、太陽 光が妙に射し込む広場のようなものが見えた。そして、その中心部には何かがいる。
「むっ! あれは……何だと!」
 凝視してウィルドは目を剥いた。何と広場の中心には先行していたはずのウェ ンスターとロースティンが倒れているではないか。ウィルドは残りの使徒に号令を掛 け、ラストスパートを掛けた。
「ウェンスター! ロースティン!」
 ウィルドが広場に飛び込むようにして入る。すぐにフリエを下ろし、二人に駆 け寄った。そこでウィルドは異変に気付く。何かが迫っている。
「むぅっ!」
 ウィルドは風を切り裂く音を耳に感じ、一瞬にして身を翻した。するとそれま でウィルドのいた場所を黒い何かが突き抜けていった。それはそのまま地面に着地す るとまたも凄まじい速度で広場を駆け抜け、茂みの中へと姿を消した。
 不意を突かれた形になったウィルドが声を限りに叫んだ。
「何者だ! 姿を見せぃ!」
「き、教主!」
 周囲の不気味な気配に大声を張り上げるウィルドをグルグスの慌てた声が呼ん だ。グルグス以下残りの使徒達は広場の入り口付近で金縛りに会ったように動けなく なっている。そしてウィルドは見たのだった。
「何だと!」
 グルグス達を取り囲む、無数に輝く赤い光を。
「やっぱり……聖者の使徒の……」
 ウリスの持つヴェリルザの歴史書を睨み付けながらフリエは呟いた。確かに聖 者の使徒に奪われた筈の歴史書をウリスが持っているということは、答えは一つだ。
「そんなに怖い顔をしないで、姉さん。私は別に姉さん達と争いに来た訳じゃな いわ」
 ウリスは肩を竦めて言い放つが、フリエは警戒を解かない。ウリスはそんなフ リエを見ながら少し寂しそうな目をして見せた。
「何もそこまで頑なにならなくても……まぁ、いいわ。そろそろ彼の方も終わっ た頃だろうし……」
「彼?」
 誰のことか見当が付かず、フリエは訝しげに訊ねた。ウリスは軽く左手をあ げ、森の奥を指差した。
「そう、彼。あなた達と一緒にいた剣士君。一人で先に行っちゃったから、呼び 戻そうと思って……使いを出してたの」
 ウリスの言葉が終わると同時に、森の木々が一斉にざわめいた。空気は不気味 に重たくなり、ただでさえ薄暗い森の中は周囲の様子を窺うことすら難しい状態に なった。フリエとジークはその中で感じていた。それらを引き起こす、圧倒的な何か が近付いていることを。たじろぐ二人を満足げに眺め、ウリスは両手を上げて得意げ に言い放った。
「アジェスラータ!」
 その名に反応したか、一瞬にして周囲を取り巻く闇は吹き飛び、森の中は先刻 よりも明るくなった。と同時に森の木々を薙ぎ払い、巨大な何かが地に降り立った。 フリエとジークは目を見開いてそれを凝視する羽目になった。
 それは先刻現れたグディエカーリオに似ていた。が、それよりも遙かに細身で あり、女性的な印象すら受ける。しかし、身の丈はエカーリオよりも更に高く、4 メートルはある。真っ白い肉体には至る所に赤く記号のようなものが羅列されてお り、それは以上に長い二の腕で顕著になっている。エカーリオ同様、顔に相当する部 分には何も無く、のっぺりとした印象を受ける。ただ、顔の部分にも記号がびっしり と描かれており、不気味な印象はエカーリオのそれ以上だ。エカーリオとの最大の違 いは背中に生える巨大な翼である。純白に赤い記号を彩らせた翼は怪物の身体を覆い 尽くしてもまだ余る。怪物はウリスの傍らまで行くと、右手に掴んだものをウリスに 見せた。
「アイゼン君!」
 怪物の手の中でぐったりとしているアイゼンを見つけてフリエが叫ぶ。ウリス が横目でアイゼンを見やり、今度は怪物を睨み付けて呟く。
「……傷つけてないでしょうね?」
 右手のアイゼンをゆっくりと地面に下ろし、怪物は優雅に礼を取った。
「ほほほ、御心配なく。少し暴れたものですから魔術で少々眠ってもらっただけ ですよ。もうじき目を覚ますはずです。それと一緒にいた兎ですが、少々目障りでし たのでしばらく向こうで眠ってもらいました。いずれ目を覚ますでしょう」
 フリエとジークが驚愕に目を見開いた。人語を話さず、聖者の使徒の命令を聞 くだけだったエカーリオとは異なり、この怪物には知能があるというのか。その驚愕 を見て取ったのか、ウリスが怪物の腕に手を置いて口を開いた。
「姉さん 、紹介するわ。これはグディ=アジェスラータ。聖者の使徒の連れて いたグディ=エカーリオを見て分かっていると思うけど……破壊神の僕よ」
 ウリスの言葉にアジェスラータと呼ばれた怪物は幾分不機嫌そうに唸った。
「この私をあのような下賤の輩と一緒にして欲しくはありませんねぇ」
「エカーリオとは違い、知性があるというのですか?」
 興味深げに訊ねたのはジークだった。彼は地面に転がるアイゼンを介抱しなが ら眼前のアジェスラータを見上げた。不思議な話、恐怖という面は薄かった。アジェ スラータに殺気というものを全く感じなかったからだ。アジェスラータは大きく身を 反り返らせて高笑した。
「ほほほほほ! 私を、知性までパワーに偏らせたような愚か者のエカーリオと 一緒にしないで頂きたいですね。私はアジェスラータ、知のアジェスラータと申しま す。本来であれば、下等な人間如きがこの私に謁見できることなど奇蹟に近いものな のですが……まぁ良いでしょう。その内、あなた方も私の偉大さに気付くことでしょ う」
 自信たっぷりの発言をするアジェスラータは横で睨むウリスに気付き、肩を竦 めて後ろに下がった。
「……これは失礼。仮にもあなたの姉君もいらっしゃったのですな」
「それ以上の罵倒は許さないわ、アジェスラータ」
 一瞥するとアジェスラータは再び肩を竦めて押し黙った。ウリスがフリエに向 き直る。
「失礼したわ、ごめんなさいね。アジェスラータは破壊神の部下の中でも高位に 位置するからどうしても傲慢になってしまうのよ。それだけの実力は持っているけど ね。まぁ、そんなことはどうでも良いわ、早速始めましょう」
「私達をどうするつもり?」
 フリエの言葉にウリスが軽く手を振った。
「勘違いしないで、姉さん。さっきも言ったけど、争う気なんてないわ。ただ、 姉さん達に真実を知ってほしいのよ」
「真実?」
 ウリスがヴェリルザの歴史書を掲げた。
「姉さん達は七賢人の書の真実にまだ触れていないわ。いえ、あなた達の誰もが 七賢人の書の真の価値に気付いていないのよ。だからこそ知ってほしいのよ、この書 に隠された真実を!」
 ウリスが語り出すと同時に、今まで倒れて微動だにしなかったアイゼンが痙攣 を起こしたように細かく動き出した。それを見たジークがアイゼンを抱き起こす。
「アイゼン君!」
「う、う〜ん……」
 軽く唸り、アイゼンはゆっくりと目を覚ました。そして彼を抱き上げるジーク の顔が浮かび上がってくる。
「あれ? 俺は確か……へんてこな奴に捕まって……ってジーク! いつの間に 追い付いたんだ?」
 呑気な声をあげるアイゼンに微笑みかけ、ジークはほっと安堵の溜息を吐い た。が、それで終われば良かったのだが、アイゼンの視線は宙を彷徨い、やがて一点 へと集中することになる。そう、グディ=アジェスラータへと。瞬間、アイゼンの怒 りは一気に沸点へと達し、気付けばジークの腕を振り解き、剣を構えてアジェスラー タに突進していた。
「一体、何なのですか!」
 これに驚いたのはアジェスラータだった。いきなりアイゼンが立ち上がったか と思うと、何の前触れもなく斬り掛かろうとしているのだ。とは言え、アジェスラー タにしてみれば人間一人などどうということもないが。
「二人にゃ手を出させねぇぞ!」
 アイゼンの絶叫が、そもそもお門違いであることを確認したフリエ、ジークは 何とか彼の暴走を止めようと手を伸ばすが、時既に遅し。アイゼンを止めることは叶 わず、彼はアジェスラータの目前に迫っていた。
「うおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
 気合い一閃、アジェスラータの細い胴を薙ぎ払うようにアイゼンが渾身の一振 りをアジェスラータに見舞った。
「ぬぅ……何たることだ」
 ウィルドはこめかみを伝う一筋の汗を拭うことも出来ず、ただその場に立ち尽 くすことしかできなかった。今やグディアルメフは完全に囲まれている。その数たる や百や二百ではないだろう。獲物を決して広場から逃がすまいと、今にも飛びかから んばかりの殺気に充ち満ちていた。
「おのれぃ! どこからでも掛かって来るが良い!」
 ウィルドが懐から一冊の本を取り出す。紫色の表紙に茨のリース。取り出した ウィルドは得意げに叫んだ。
「私にはこの『マハールクの写本』がある! 貴様らなぞ物の数ではないわ!」
 言い放つウィルドの右手には、確かに彼自身が以前せっせと書き写していた代 わりの本がある。今回、『マハールクの予言書』が奪われたことに伴い、本の分だけ 重量が軽くなり、バランスが悪くなったのだった。それを補う為に急遽戦車の中から 引っ張り出してきたのがこの本だ。勿論、七賢人の書のような不思議な力など無く、 単に書き写しただけのものに過ぎない。しかし、気は持ちようで、これを持っている だけでウィルドの気分は高揚していた。ウィルドは本を天高く掲げ、広場を取り囲む ようにして集まっている姿なき怪物達に向かって行った。
「教主!」
 フリエを庇い、身動ぎ一つ出来ないグルグスが叫ぶ。ウィルドは大丈夫だ、と 目で語るとそのまま茂みの中へと入っていった。途端に殺気が膨れ上がり、茂みの向 こうが騒がしくなった。何かが駆け抜ける音、打撃音、短い悲鳴などが断続的に響い てくる。
 が、その音もある時を境にぷっつりと聞こえなくなる。すると今度は逆に不気 味な程の静寂が訪れる。一秒、二秒……時間を追う毎に不安の募る使徒の一人が遂に 声をあげた。
「き、教主! ご無事ですか!」
 が、それに対するウィルドの返事はなく、代わりに再び茂みの中で何かが動く 音が聞こえてきた。ガサガサと不安だけを増長するような音を伴って現れたのはウィ ルドではなく、小さな黒い物だった。
 それは艶やかな黒い毛並みを持つ兎だった。丁度ノエルぐらいの大きさで、目 が赤い。黒い兎はゆっくりと使徒達に向かってくると、間合いを計るようにぴたりと 止まる。残された使徒達が一斉に構える。
「兎だと……? えぇい、構わぬ! 教主ウィルドの仇を取ってくれる!」
 グルグスが代表して一歩前に踏み出すと、黒い兎はぼそぼそと何かを呟き始め た。訝しがりながらもその声を聞く使徒達。
「……そんな……馬鹿な……たかが……人間……如きに……」
 それだけ言うと、黒い兎は目を剥き、そのまま仰向けに倒れ伏した。そしてそ のまま動かなくなった。と同時に、茂みの向こうから二、三匹の黒い兎を抱えたウィ ルドが現れる。肌の露出している部分に幾分裂傷を負っているものの、ウィルドはさ して重傷を負っている様子もなく、ゆっくりと使徒達の前に歩み寄ってきた。
「教主! ご無事で!」
「うむ。しかし、凄まじい連中よ……」
 頬に残る新しい爪痕を撫でながらウィルドは頷いた。グルグス達に守られるよ うにして立っているフリエの姿を認め、一瞬安堵の表情を浮かべるものの、すぐに厳 しい表情に戻る。
「我々の目では捉え切れぬ速度で死角から攻めて来おった。間合いを間違えれば このウィルドでも危ないところであった。今、ざっと確認したが、この広場を中心に 三百以上の黒い兎達に囲まれておる」
 背後に気配を感じ、ウィルドが横目で一瞥する。すると途端に気配は別の場所 へと移動し、茂みの向こうの闇の中へと埋没してしまう。このままここにいれば、い つ黒い兎達に襲われてもおかしくはなかった。だが、強引に広場を突破しようとすれ ば、黒い兎達はウィルド達に一斉に襲い掛かってくるだろう。
「一体どうしたものか……このままでは我らの全滅、免れぬな……」
「しかし、教主……よくよく見れば、我々を襲っているのは兎の様子。兎と言え ばノエル。ノエルを攫った連中がこの黒い兎達だとすれば……何か事情があるように 見えまする」
 グルグスの言葉にウィルドは頷く。
「かも知れぬな。元々白いとは言え、ノエルは喋る兎。こ奴らは黒いとは言え、 同じ喋る兎。何らかの関係はあるに違いないのだが……むっ!」
 途端に凄まじい殺気を感じ、ウィルドが振り返る。そのタイミングにまるで合 わせたかのように、一条の黒い風がウィルドの喉元目掛けて飛びかかってきた。
「ぐっ、ぬぅぅぅっ!」
 ウィルドは喉元に喰らい付こうとする一羽の黒い兎を何とかマハールクの写本 を楯にかわすと、その場を飛び退いた。が、黒い兎は地面に着地すると同時に全く予 備動作もなく、すぐさま方向を修正してウィルドに再び襲いかかってきた。幾分低い 位置から急角度で迫る兎の攻撃にウィルドがバランスを崩す。
「ぬあっ!」
 足がよろめき、体勢の崩れたウィルドの喉元目掛けて黒い兎が前足を繰り出し た。空を切り裂く音が広場に響き、ウィルドの首を薙ごうと迫り来る。
「ぐ……うおおおぉぉぉぉぉぉぉっ!」
 ウィルドは気合いの咆吼と共に首を強引に傾げさせ、何とか兎の一撃の直撃を 免れた。だが、完全にかわすことは出来ず、頸動脈付近の川が浅く切り裂かれ、血が 噴き出した。
「くあっ!」
 右手で首を押さえ、ウィルドが体勢を立て直す。そのほんの一瞬の時間に、黒 い兎はすぐに次の行動に移っていた。今度は天高く飛翔すると木々の幹を蹴って空中 を自由自在に移動し始めたのだ。全く予想の出来ない変則的な動きに、ウィルドが脂 汗を流す。
「教主……!」
「お前達は来るな!」
 一喝してグルグス達をその場に止めると、ウィルドは油断無く木々を移動する 黒い兎を目で追おうとした。が――
(何と! 素速すぎてこのウィルドの目を以てしても追えぬ!)
 ウィルドは今更になってウェンスターとロースティンが敗れた理由を悟った。 この兎は別格だ。先程茂みの中で戦った数羽とはそもそも次元が違う。並の兎なら後 れを取らなかったであろうあの二人も、この兎には手も足も出まい。
「ぐっ……どこだ!」
 完全に姿を見失い、困惑するウィルドを嘲笑うかのように空を切る音が響く。 ウィルドはその音の方向を頼りに振り返る。その方向とは……
「上か!」
 見上げた蒼空に黒い影が覆い被さる。兎は確実にウィルドの首を取ろうと迫り 来る。この状態で迎え撃てば、ウィルドに勝ち目はない。
(ぬぅ! このウィルドの頭上背後を取るとは……ただの兎ではない!)
 敗北を悟ったウィルドは無理に迎え撃つことはせず、全力でその身を投げ出し た。飛び込みの要領で草むらを転がるウィルドは、一瞬の後に地面を抉る凄まじい轟 音と振動を聞いた。ウィルドは構わずすぐに立ち上がり、濛々と土煙を上げる抉れた 地面とその中心に佇む黒い兎を睨み付けた。
「会話が出来るのであれば聞こう! 何故に我らを襲う? 貴様らは何者だ!」
 ウィルドの言葉を理解したのだろう、黒い兎は一度その場で回転し、土煙を吹 き飛ばすとウィルドに正対して向き合った。
 他の兎より一回り大きな体、艶やかな黒い毛並み、眼光鋭い赤目は、左に大き な縦傷が走っている。強靱にしてしなやかな肉体は一見して美しく、野生の力強さを 感じさせた。そんな黒い兎は、ウィルドに対して遂に口を開いた。
「ちっ……この俺の首刈りをかわすたぁ、ちっとは出来るようだな……」
 まだ若い……そう感じさせる口調と声にウィルドが目を細めた。一歩前に踏み 出し、先程の質問を繰り返す。
「もう一度聞くが、何故に我らを襲う?」
 ウィルドの言葉に黒い兎は吐き捨てるように言い放った。
「けっ、よく言うぜ! てめぇら……てめぇら人間如きがこの黒兎一族に手ぇ出 しといて抜かすんじゃねぇぞ!」
 黒兎一族……そう名乗った兎は憎悪の眼差しをウィルドに向ける。
「黒兎一族……聞かぬな、そんな名は。第一、我らは貴様達に手を出したわけで はない。旅の共が何者かに拉致された故、この領域に進入したらば貴様らが牙を剥い てきたのではないか!」
 ウィルドも怒りを露わに語調を荒げた。それを聞いた黒兎一族の兎はますます 怒り狂った。
「黙れ! 貴様らが俺達の同胞にどんな扱いをしてきたか、俺たちは知っている ぞ!
 おい、お前ら!」
 兎が茂みに向かって呼びかけると、数羽の黒兎一族の兎達が現れた。その中心 にはしっかりと押さえつけられているノエルの姿があった。煤で真っ黒になっている が、天然の黒でないそれは一見してよく分かる。ノエルはウィルドを見つけると泣き 声をあげた。
「ウィルド様ぁ〜、助けて下さいぃ〜!」
「ノエル! おのれぃ……貴様らがノエルを拉致した集団か!」
 ノエルを見て怒りを更に強くしたウィルドはリーダー格らしき黒兎に憎悪の視 線を向けた。が、黒兎の方もそれに負けないくらいの勢いで睨み返す。
「ふざけんじゃねぇ! 最初にこいつを拉致して虐待したのは貴様らだろう!  見ろ、このごわごわで艶を失った毛を! ろくな食事も与えられず、酷い扱いを受け ていた証拠だ! 本来、強靱であるはずの肉体も貴様らに拉致されたせいで失ったと 見える!」
「何を抜かす、この馬鹿兎が! ノエルは我らの同胞! このウィルド、一日と て己が使徒達をぞんざいに扱ったことなど無いわ! 貴様こそ、我らの大事な仲間を 拉致した罪、万死に値すると思えぃ!」
 ウィルドと黒兎が睨み合う。悪鬼のウィルドと羅刹の黒兎、どちらも憎悪渦巻 く黒い炎を背負い、相手を食らい付くさんとばかりに絡み合い、弾き合い、互いに昇 華していく。
 その様子を今まで静観していた――というより状況に付いていけてなかった ――フリエはふとあることに気付いてグルグスに耳打ちした。
「あの……グルグスさん」
「邪魔しないで下され! 今、我らが教主が悪の権化であるあの兎を葬り去って くれまする! その世紀の瞬間をこの目に焼き付けなければ……このグルグス一生の 不覚!」
 ウィルドの怒りと共にエキサイトしていく使徒達を半ば呆れながら見やるフリ エは、事態好転の為にそれでも我慢してもう一度耳打ちした。
「あの……グルグスさん」
「あぁっ、もう! 何ですか、フリエ様! 今は他のことにかかずらっておる場 合ではないのです!」
「でも、グルグスさん。話を聞いてて変だと思いません?」
 フリエは子供に言い聞かせるように出来るだけゆっくりと言った。グルグスは 頭の上に疑問符を浮かべながら聞き返した。
「一体何が?」
「だから……父さんとあの兎の言っていることです」
「我らが同胞を拉致した不届き者を今から教主が叩き潰して下さる……それのど こがおかしいのですか?」
 グルグスの理解力の無さに頭痛を覚えたフリエだったが、このままでは身の破 滅と思い直し、再び頑張って説明を始めた。
「だから……あの黒兎もそう言ってるんですよ。それで考えたんですけど……今 のノエルちゃん、煤で真っ黒じゃないですか? それであの黒兎達、ノエルちゃんの 事を黒兎と勘違いしているんじゃ……」
「一体それが何だと言うんです? 道理の通らぬ奴らを殲滅すれば良いだけで しょう?」
 フリエは本格的に始まった頭痛に苛まれながら、このままここにいる全員に魔 術を掛けてしまった方が簡単なのではないかという考えが脳裏に過ぎった。本当は罵 倒したいところを無理矢理笑顔を繕ってグルグスに最後の説明をした。
「だから、ノエルちゃんが黒兎じゃないことを教えてあげれば、黒兎の方も勘違 いだったことが分かって、争う理由が無くなるんじゃないかな、と思って……」
 これで分からなかったら絶対に魔術を使おう、そう決意を固めたフリエだった が、さすがにそれは杞憂に終わった。グルグスは何やら目が覚めたような目から鱗が 落ちたような状態で数秒程固まっていたが、やがてかくかくと首を振りながら相槌を 打った。
「成る程! 素晴らしい洞察力! このグルグス感服致しましたぞ! さすがは 教主ウィルドの御息女にして闇の巫女であられるフリエ様! このグルグス、さっぱ り気付きませなんだ!」
 物凄く褒められているはずなのだが、ちっとも嬉しくないどころか逆に腹が立 つのは気のせいかしらとフリエは内心で苦笑いを浮かべた。ともあれ、教壇第二位の 実力者を説得できたことで状態は好転するかに思えた。実際にグルグスが進言に向か おうとしたのだ。だが、全ては遅かった。
「教主! 重要なお話が!」
 言い掛けたグルグスはそこで言葉を切った。フリエが訝しげにウィルドを見や ると、そこには既に言葉を超えた何かでぶつかっている一人と一羽の姿があった。グ ルグスががくっと膝を付いた。
「……何ということだ。最早遅すぎた…。ああなってはどちらかが倒れるまで止 まることはない……このグルグスに今少しの洞察力があればこのようなことに は……」
 グルグスのぼやきはこの際無視するとして、フリエは圧倒的迫力を放つ一人と 一羽に気圧された。あの時と同じ、術でどうこうできるレベルではない。フリエは知 らず一歩退いていた。
(一体……何なのよ、こいつら……)
 自分の術の効かない相手がこれほど不気味とは思わなかった。フリエは勝手に 震え出す足を何とか自力で押さえようとしたが、無理だった。その時、後ろからそっ と彼女を支えたのはストゥンラッド五兄弟の一人だった。禿頭、逆三角体型、黒いビ キニパンツというグディアルメフのメンバーの中でも異様さは随一の彼らだったが、 この時の彼らはとても頼りになりそうに見えた。ストゥンラッド五兄弟の内の誰なの か、フリエには分からなかったが、フリエを支えながら親指を立てる彼は不思議とフ リエを安心させた。
 一方、ウィルドと黒兎の亀裂は修復不可能なレベルまで進んでいた。勿論、こ の時点でウィルドは黒兎の言い分の半分も理解していないし、黒兎もウィルドの言い 分を半分も信用していない。結果として、己の主張を押し通す為に激突するのは必至 だった。
「これほど言っても分からぬならば……実力で排除するしかあるまいな……」
 ウィルドがマハールクの写本を掲げた。それを見た黒兎が嬉しそうに牙を剥 く。
「へっ、面白ぇ……シンプルな結論ってのは大好きだぜ!」
 両者は互いに出方を窺っていた。が、互いに隙が生じない為、身動ぎ一つ出来 ない。そうして数分が過ぎた頃――
「ウィルド様、頑張ってぇ!」
 緊張に耐えられなくなったノエルが思わずウィルドを応援した。瞬間、黒兎が 地を蹴り、ウィルドがそれを目で追った。本を取り出したものの、術すら使わない ウィルドに対し、黒兎が小馬鹿にしたように叫んだ。
「生身で良いのかよ! 軟弱者の人間如きがぁ!」
「ふん! 術も使えぬ兎風情に我が術など必要ない! それに生身で肉体のぶつ かり合いを演じるこの場において、魔術など無粋! 我が流儀に反するわ!」
 ウィルドは言うと同時に飛びかかってきた黒兎の一撃を受け止める。肉薄する 中、黒兎が楽しそうに声を張り上げた。
「気に入ったぜ、その根性! だが、それとこの戦いは別だ! 手めぇの血と絶 叫でこの広場を浸してやるぜぇ!」
 前足をガードされた黒兎はそこを軸として全身を回転させ、今度は後ろ足で首 を薙いできた。超至近距離の連続攻撃にウィルドが慌てて身体を背後に反らせる。二 打目もかわされた黒兎は一旦ウィルドから離れ、茂みの中に隠れた。ウィルドが上体 を起こすと、そこに間髪入れずに背後からの奇襲が襲いかかる。恐るべきは黒兎の素 早さだ。一瞬にしてウィルドの死角に回り込み、ウィルドの首を掻き切ろうと襲いか かる。
「あまり馬鹿にするでないぞ!」
 だが、ウィルドはその奇襲を難なく受け止めた。首ばかりを執拗に狙う黒兎の 攻撃は確かに脅威だが、その分対策も立てやすい。要は首の防御に全神経を集中すれ ばいいのだから。ウィルドは連続攻撃を防ぐべく、攻撃を受け止めると同時に一旦間 合いを空けた。だが、それが間違いだった。
「甘いぜ! 人間!」
 弾かれ、地面に着地したと同時に飛びかかる黒兎。この黒兎にはあらゆる生物 に必要な踏み込みが存在しない。よって、黒兎の攻撃は常識ではあり得ない速度を 持っていた。超高速で飛びかかる黒兎の狙いは、ウィルドの首ではなく腕だった。
「おらぁぁぁぁぁっ!」
 ザシュッ! 黒兎の強靱な前足の爪がウィルドの右腕を引き裂いた。首の防御 に集中していたウィルドは腕への攻撃に咄嗟に対応できず、かなり深い傷を負わされ てしまった。
「ぐあぁっ!」
 激痛に片膝を付くウィルド。苦悶に顔を歪め、次なる攻撃を繰り出そうとする 黒兎を睨むが、右腕はうまく動かない。
「無駄だぁ! その深手じゃしばらく右腕は使えねぇ! 大人しく掻っ切られち まいな!」
 木々の幹を縦横無尽に移動し、黒兎が高笑する。ウィルドはよろよろと立ち上 がる。だが、その様子は頼りない。
「ウィルド様ぁ!」
「教主!」
 ノエルが泣きそうな声で悲鳴をあげ、教主の危機に使徒達が絶叫した。状況悪 しと悟ったグルグスは加勢すべく広場へと駆けていった。が――
 ビュン! ビュン! ビュン!
 すぐさま茂みの中に潜んでいた黒兎達に取り囲まれ、それもままならない。
「大人しくしていてもらおうか」
「もしも戦いの邪魔をするようであれば……」
「我ら黒兎一族三百が貴様らの相手をしよう」
 実質的な殲滅の脅しにグルグスの足が止まる。大人しく戻って来た彼は、使徒 達に号令を掛けた。
「我々は教主ウィルドの勝利を信じて疑わぬ! 今こそ我らの力で教主を手助け するのだ! 暗黒の調べ、斉唱!」
 グルグスの号令の元、暗黒の調べが始まった。それを横で聞きながらフリエは 傷ついていくウィルドの姿を見ていた。
(どうしてそんなに苦しい思いをしてまで戦わなきゃいけないの?)
 ウィルドの考えは理解不能だ。わざわざ事態を悪化させて、結局最悪のシナリ オしか描けない。そこまで怒りに任せて行動しなくても、もっと冷静に理論的に解決 すれば良いのに。たかが兎一羽の問題でそんなに頭に血を上らせて……たかが兎一 羽。
 フリエはノエルを見やった。ウィルドが傷つく度に泣きそうになりながら応援 するノエル。まさに必死だった。今度は傍らの使徒達を見上げた。全員が全身全霊で 暗黒の調べを斉唱している。その必死の形相は見たことがない。
(どいつもこいつも……馬鹿みたい。下らないことで熱狂して……。……でも、 どうして私はこの戦いから目を離せないのだろう。……どうして父の無惨な姿から目 を背けられないのだろう?)
 フリエは知らず知らずの内に両手を握り締めていた。
「うわぁぁぁん! ウィルド様ぁ!」
 ドシャッ! ノエルの悲鳴とウィルドの倒れる音が重なった。ウィルドは既に 満身創痍の状態だった。相手の超高速攻撃は捉えることすら難しく、まして右腕の機 能を失っている。既に裂傷は全身に及び、辛うじて急所を外しているものの、常人な らば死んでもおかしくない程の出血だ。
「……ぐぬぬ。ま、まさか……これほどの手練れがこの森に存在しようと は……」
 ウィルドはまだ力の残っている左腕を頼りに起き上がると、両肩を激しく上下 させながらも戦いの構えを取った。既に戦える状態ではないのは百も承知だが、それ でもウィルドは止めなかった。いつの間にか姿を現していた黒兎が、ウィルドの眼前 にいた。
「そろそろ終わりだな、人間」
 冷笑を浮かべる黒兎。対照的にウィルドはどこか晴れがましい様子で黒兎を見 ていた。それを感じ取った黒兎が訝しげに小首を傾げた。
「どうした? 人間」
「……このウィルド、かつてこれほどの強敵に出会ったことはない。名を……聞 いておきたい」
 ウィルドの頼みに黒兎は存外素直に応じた。
「……戦士の情けか。へっ、地獄の門番に訊かれても困らねぇよう、しっかりと 教えてやるぜ。俺は黒兎一族を束ねる、族長ヴェイドだ」
「ヴェイド……か。しかとこの胸に刻み込んだわ」
 ウィルドが静かに構えた。ヴェイドがふっと笑った。
「死すならば戦士として、か? 泣かせてくれるぜ」
「私は……グディアルメフ教主として、敗北は死だと考えておる。そして我が死 は必ずやその後を引き継いでくれる者達の胸に刻まれていくだろう。その為ならばこ のウィルド、命など惜しくはない!」
 ウィルドがグディアルメフ達に向き直った。その真摯な眼差しに、グディアル メフの使徒達は暗黒の調べを止めた。
「使徒よ! 我が同胞達よ! 我、ここに死すとも心は……志は死せず! 必ず や我が遺志を引き継ぎ、グディアルメフ神の降臨を願っておるぞ!」
「教主!」
 突然の物言いに使徒達が一斉に涙を流しながら絶叫した。
 次いでウィルドはフリエに優しげな眼差しを向ける。
「フリエよ、我が娘よ……このような生き方しか出来ぬ父を許せ……父らしいこ とを何もしてやれなかったな、済まぬ」
「と、父さん……?」
 ウィルドの只ならぬ気配にフリエが表情を歪めた。
「嘘! 何勝手なこと言ってるの! どういう意味なの、それ!」
 普段のフリエならば絶対に口にしないような口調だった。が、フリエは気にせ ずに叫んだ。それを聞いたウィルドは寂しげに微笑むと、最後にノエルに向き直っ た。
「ノエルよ……どうやらお前を助け出すことは出来なくなりそうだ。全てはこの ウィルドの力不足によるもの……許せ」
「ウィルド様ぁ……えぐっ、えぐっ。やだよぉ、そんなこと言っちゃやで すぅ……」
 ノエルが泣きながらウィルドの言葉に頭を振った。
 最後にウィルドは天を見上げ、ここにはいない妻と息子の顔を思い浮かべた。
(……思えば、私は夫として……父として何もしてやれなかったのだな……)
 全ての者達に思いを馳せたウィルドは厳しい表情でヴェイドに向き直った。こ こまで律儀に待ってくれたヴェイドに最後に礼を言う。
「済まぬな、手間を取らせた」
「なぁに、構わねぇよ。戦士の最後は尊重するもんだ」
 静かだった。大気の息吹が優しく二人の間を駆け抜け、彼らを覆う深緑の葉は 彼らを抱こうとさわさわと揺れている。射し込む陽光はまるでウィルドの旅立ちを祝 福してくれているかのようだった。そして先に動いたのは……ウィルドだった。
「うおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
 全身全霊、全ての持てる力を振り絞ってウィルドはヴェイドに迫った。ヴェイ ドはそれを見て余裕の様子で飛び込んだ。ウィルドの左の拳がヴェイドに迫り、ヴェ イドの前足がウィルド目掛けて襲いかかる。瞬間、世界が輝いた気がした。
「教主!」
「ウィルド様ぁ!」
「父さん!」
 全員の声が重なる中、ウィルドは後方に倒れた。ヴェイドの強靱な前足をその 身に受けて。口から大量の血を吐き、それでも安らかな笑顔で倒れた。まるで世界中 の全てから祝福されたように……本当に清らかな笑顔でウィルドは大地へと回帰し た。
 ウィルドを倒し、大地に降り立ったヴェイドはぼそりと呟いた。
「我が主ノエリット・ヴァーンよ。この者の御霊に安らぎと幸あらん事を願い奉 る」
 グディアルメフ教主ウィルドは、過去の森南西部、黒兎一族の領域にて戦士と しての幕を閉じた。
 アイゼンは驚愕のあまり、動くことが出来なかった。彼の放った剣撃はアジェ スラータを確実に捉えていた。虚を突かれたアジェスラータには回避する時間も防御 する時間もなかった。刃は確実にアジェスラータの胴を薙いだ筈だった。だが、現実 はどうだろう。
「……全く、知的レベルの低い屑は何をしでかすか分かりませんねぇ……」
 アジェスラータは蔑むように言い放ち、自身の胴に触れて止まっているアイゼ ンの剣に手を掛けた。
「馬鹿な……確実に捉えたはずなのに……」
 アイゼンの呟きにアジェスラータは肩を竦めた。
「この私をその辺の屑共と一緒にしてもらっては困りますねぇ。この世界に顕現 する際に肉体が劣化しているとは言え、人間如きの刃で傷など付くはずがないでしょ う?」
「くっ! 剣が動かねぇ!」
 アジェスラータに掴まれている剣はまるで万力に挟まれたかのようにびくとも しない。
「アイゼン君! 逃げて下さい!」
 フリエとジークが同時に同じ事を叫ぶ。が、アイゼンは剣を手放そうとしな い。
「くそ! 離せ、離せよ!」
「……全く、いきなりこの私に斬り掛かるなど、神をも恐れぬ行為に出たと思え ば、今度は私に命令ですか? あなたのような愚か者には一度己の立場というものを 分からせなければならないようですねぇ」
 言うが早いか、アジェスラータは腕に力を込めた。腕に描かれた記号の一部が 輝いたかと思うと、アイゼンの剣はあっさりと砕け散った。
「な……!」
 砕ける刃の破片に無数の自分を映しながら、アイゼンは呆然と立ち尽くした。
「これで少しは懲りたでしょう。この私に逆らうとどうなるか……」
「この野郎!」
 アイゼンはアジェスラータが言い終わらぬ内にアジェスラータに殴りかかっ た。それはその場にいる全員が予想だにしないものであった。
「アイゼン君!」
「この野郎! 人の剣をよくも!」
 アイゼンは悔しさと情けなさに突き動かされてアジェスラータに向かっていっ た。アジェスラータはまたも不意打ちを浴び、その腹部を殴られたが元々凄まじい装 甲を誇るアジェスラータには何の効果もない。逆にアイゼンの手が痛むだけだ。だ が、それでもアイゼンはアジェスラータを殴るのを止めなかった。アジェスラータが 何度目か、肩を竦めた。
「やれやれ。ここまでの愚か者は七賢人の世にもいなかったのですがね。どうや ら死なねば分からないようですね」
 アジェスラータは素速くアイゼンの身体を掴むと腕に力を込めた。腕に記号が 輝き出す。
「ぐ、ぐぅ……あああぁぁぁぁ!」
「止めなさい! アジェスラータ!」
 寸でのところで止めたのはウリスだった。アイゼンの覚醒によって話が中断さ れていた彼女は不機嫌さを隠すこともなく、アジェスラータを怒鳴りつけた。ウリス の叱責にアジェスラータがアイゼンを解放する。
「……失礼を致しましたね。あまりに聞き分けがないものですから、つい……」
「知のアジェスラータとも思えない愚行ね。アジェスラータ、彼の剣を直しなさ い」
「御意」
 ウリスが命令するとアジェスラータは砕けた剣に手を翳した。腕の、今度は別 の部位の記号が輝き、一瞬にして剣は元の形に戻った。そしてそれは丁寧にアイゼン の元へと届けられた。
「失礼をしたお詫びです。少々痛んでましたからね、私が新品同様にしておいて あげましたよ」
 アイゼンはピカピカになった剣を眺めながら、思わず口走ってしまった。
「あ、ありがとうな……」
 言われたアジェスラータも律儀に言葉を返す。
「いえいえ、ただ直すだけでは芸がありませんからねぇ」
 アイゼンはアジェスラータのことを案外良い奴なのかも知れないと思ってし まった。
 それはさておき、一連の魔術を見ていたフリエははっと気が付いた。
「その魔術……まさか神聖語魔術?」
 フリエの発言にアジェスラータが嬉しそうに口を開いた。
「ほぉ! これはこれは! 愚鈍な人間の分際で神聖語を解するとは! いやは や、このアジェスラータ、人間に対する認識を改めなければなりませんね。左様、我 が肉体に刻み込まれしこの文字こそが神聖文字。この世界で最も高位にして高貴な言 語なのですよ」
「ウィルドさんから神聖語の話を訊かされて、少し勉強したのよ。アジェスラー タ……確か調べた単語の中にあったわね。アジェスラータ……参謀の意味ね」
 フリエの言葉にウリスとアジェスラータがいよいよ表情を崩す。二人とも幾分 か興奮気味だ。
「ウリス様達以外に本当に神聖語を解する者がいたとは……ウリス様、やはりあ なたの目と勘に狂いはなかったようですねぇ。最初は半信半疑でしたが……今ならば 私も納得できますよ」
 アジェスラータの物言いにフリエが訝しげな表情をした。
「どういう意味?」
「あ、ごめんなさい、姉さん。さっきも言ってたでしょ? 姉さん達には真実を 知ってほしいって。その真実を知るにもそれそ相応の知識が必要なのよ。姉さん達に それがあるか、アジェスラータを使って見極めようとしたんだけど……」
 アジェスラータが肩を竦めた。 「私が試す以前に神聖語などを言い当てられてしまっては試す必要もありませんから ねぇ。いや、手間が省けたと言うべきか、楽しみが減ったと言うべきか」
 その時、横から口を挟んだのはジークだった。彼は一連の流れを見ていて腑に 落ちない点を尋ねることにしたのだ。
「すいませんが……少々お聞きしたいことがあります」
「何かしら?」
 ウリスはそれを素直に受け入れた。
「あなた方は先に出会った聖者の使徒とは全く雰囲気が違いますね。彼は……彼 女かも知れませんが、このような回りくどいことはせず、実力行使で本を奪っていき ました。しかし、あなた方は本を持ってきたり、我々の知識を試したり……敵対して いるという印象を受けないのですが……それにアジェスラータさんですか? この方 もエカーリオとは印象が違うような……」
 エカーリオの名が出され、アジェスラータが間髪入れずに会話に割って入っ た。
「あれと一緒にしないで頂きたい! 私達は元来、人間の世界などどうでもいい のです。元々取るに足らない世界ですから。ただ、呼び出された時だけはその者の戯 れに付き合ってやる、その程度の認識でしかないのですよ。私はウリス様によって現 世での肉体を与えられましたから、ウリス様の成す事に付き合うだけなのです」
「成る程……しかし破壊神降臨を望むなどという事は?」
 ジークの重ね重ねの質問にアジェスラータは更にすらすらと答える。
「同様の事です。我が神も戯れにこの世界の法則に干渉するだけです。まぁ、我 が神の力はあまりにも強大なので、世界そのものが塗り替えられてしまうわけです が……」
 話が逸れてきたところでウリスが話を戻した。
「私と聖者の使徒……それに聖者はそれぞれが一応目的を共有しているわ。でも それだけじゃないの、方法論に相違があるし、何より本当に目指す所は全員違うの よ。私には私の思惑があるし、その他の連中にはその他の連中の思惑があるの。だか ら、私がこうしてあなた達の前に現れたことは独断だし、その内に他の連中も独自に 動くかも知れないわ」
「つまり、あなたの最終目的には我々への敵対は含まれていない、と?」
 ウリスは軽く頭を振った。
「それは分からないわ。でも、可能性の一つとしてそれはあるかも知れないわ。 何よりも今のこの状態がそれを見極める為の過程に過ぎないということよ」
「つまり、これから言う真実に対する見解次第で、敵にも味方にもなるというこ と?」
 ウリスは頷く。アジェスラータはその間、話に付いていけてないアイゼンに解 説を始める。意外にアジェスラータは世話好きなのだろうか。
「でも待って、どうして私達なの? 神聖語ならウィルドさんも知っているはず よ」
 フリエの疑問にウリスは苦笑した。
「駄目よ。あの人、根が単純だし素直だから。深い意味での真実の考察には向い てないから。それに……『ヴェリルザの歴史書』はあなたの物だからよ」
「私の……物?」
 フリエの視線が知らずウリスの手の中の歴史書に注がれる。
「これは……もう私には必要のない物だし、娘のフリエにでも任せようと思った んだけど……あの子は駄目ね。周りを見ているようで見ていない。自分を知っている ようで知らない。己も周囲も理解できない者が歴史書を持つことは許されないわ」
「だから私を?」
「姉さんしかいないと思ったのよ。この私に匹敵する人間は姉さんしか思い付か ないし、何より姉さんならきっと私の気持ちを分かってくれると思ったから……」
 恥ずかしそうに俯くウリスを、フリエはどう見れば良いのかが分からなかっ た。最初の再会の頃の刺々しさが自分の中から消えていくのを感じる。聖者の使徒と 組んでいると確信した時は様々な負の感情を持ったものだが、こうして事情を聞いて いると、少しずつ妹の気持ちが理解できるような気がした。妹は、裏切っていたので はなかったのだ、少なくともこの件についてだけは。
「ウリス……」
「フリエ姉さん。姉さんなら書の真の持ち主になれるわ」
 ウリスの言葉にフリエは横目でジークやアイゼンを見やった。
「まぁ、折角下さるということですし……しかし良いのですか?」
「聖者に知られたら只では済まないわ。でも、私にはアジェスラータもいるから おいそれと手出しは出来ないと思うし」
 フリエはウリスに頷いた。ウリスはアジェスラータを見やった。心得た様子で アジェスラータが七賢人の書を受け取った。アジェスラータは何らかの呪文を唱える と、七賢人の書の茨のリースの部分が輝いた。光が収まるとアジェスラータは素直に それをフリエに手渡した。4メートルを超える巨人が迫るとなかなかの迫力だった。 久しぶりに戻ってきた歴史書の感触に、フリエは目を閉じた。
「これで歴史書の最終層の暗号が浮かび上がりました。時が来れば、あなたの神 聖語が必ずや書に隠された真実を明かしてくれる事でしょう。……では、我々は他に もやるべき事が残っておりますのでこれで失礼させて頂きます」
言うが早いか、アジェスラータの胸の神聖文字が輝き出すと、それと同時にア ジェスラータとウリスの姿が揺らいだ。消える直前、ウリスは微笑みながらフリエに 伝えた。
「姉さん、必ず真実に辿り着いてくれると思っているわ。その時、またゆっくり 話をしましょう」
 それだけの短い別れを終え、手元に残ったのは歴史書だった。フリエは手の中 の書を暫く感慨深げに眺めていた。ジークやアイゼンがその様子に軽く笑みを浮かべ た。
「まぁ、予想外の出来事でしたが、棚からぼた餅と言いますか……とにかく書が 一冊戻ってきて良かったですね。ここは素直に喜びましょう」
「あ〜ぁ、俺の書もあのアジェ何とかが持ってきてくれないかな?」
 剣を立派にしてもらったことですっかり上機嫌のアイゼンは、軽い調子で言っ た。
 通路ルート組、七賢人の書『ヴェリルザの歴史書』を奪還。
 夢を見ていた。これはいつの頃だろう。随分若い自分が立っている。これ は……そう、まだモエルティマ博士が生きている頃の自分だ。確か、この時は博士と 一緒に森へ入ったはずだ。青々と生い茂る葉も、森特有の空気も何故か懐かしい。木 漏れ日がきらきらと光っていてとても綺麗だ。
 段々と思い出してくると、成る程、確かに自分はモエルティマ博士の背中を 追って森の中を分け入っている。博士はゆったりとした足取りの筈なのに、何故かど んどん引き離されていく。登山部顧問とは聞いていたが、信じられない脚力だ。追い 付かれないように草を踏み締め、枝を払って博士の下へ駆け寄る。すると、博士はぴ たりと止まる。振り返り、哀しそうな顔で呟いた。
「ウィルド君……」
「はい、博士」
 返事をする私の肩を叩き、博士はまたぼそりと呟いた。
「あなたは非常に優秀な生徒ですが、少し問題があるようです」
「問題……? それは一体なんでしょうか?」
「……少し、歩きましょうか」
 それだけ言うと、博士は再び薄暗い森の中を一人で進んでいく。やはりその ペースは早い。追い付くだけで精一杯だ。私は歩く博士に対して走って追い付かねば ならなかった。すると博士はまたもぴたりと歩くのを止めた。振り返り、私に尋ね る。
「ウィルド君、どう思いますか?」
「はぁ……何のことでしょうか?」
 博士が何を示してそう訊ねるのか、全く意図が読めず、私はそう聞き返した。 すると博士はまたも無言で歩き出した。今度は先程までに比べるとゆったりとした歩 みだが、それでも速いものは速い。私はやはり走らねば追い付くことが出来なかっ た。
「……ウィルド君、どうですか?」
 その後も博士の質問は続いた。だが、私には博士が何のことを指しているのか 皆目見当が付かなかった。今日の探索を終え、キャンプをすることになった。焚き火 の日を眺めながら、博士は私に尋ねた。
「今日はどうでしたか?」
「はぁ……かなり歩き疲れました」
「ウィルド君……他に何か思うところはありますか?」
 博士が訊ねた。いつも細い目を、更に細めて私に尋ねる。私は無言で頭を振っ た。
「今日、君に六回程尋ねましたね、途中で……」
「はぁ……しかし、あれに何の意味が……」
「君はまだ若い。まだ気付かないのは仕方ありません。しかし――」
 博士はそこで一旦言葉を切った。そして、徐に立ち上がった。彼はそのまま ゆっくりと森の闇の中へと歩き出した。
「博士! 一体どちらへ!」
「私はもう行かねばなりません。ウィルド君、よく……思い出すのですよ」
 博士はそれだけ言うと姿を消した。後に取り残された私は、ただ呆然としてい るほか無かった。
 博士は一体何を求めていたのだろう。私はゆっくりと思い出すことにした。今 日一日のことを考えていると、不思議と心が安らぐ。その内、小鳥の囀りや葉が擦れ る音、風の声、空気の匂い……様々なものが過ぎる。そこで私ははたと気が付いた。 博士が立ち止まる度、そこには大自然があった。最初は森の木々や草に対する戒め だ。私は彼らの声を聞くことを怠っていたのだ。二つ目は……そう、動物達の生命 だ。茂みの中に、たくさんの命が息づいていた。それから……。
 私は次々と森の姿を思い出す。それらを思い出すたび、私は森と一体化するの だ。私は閉じていた目を開き、立ち上がった。最早、ここはキャンプではない。あの 広場だ。私が倒れる、あの広場なのだ。私の背中にモエルティマ博士の視線を、気配 を感じる。博士はまだ私を見守っていてくれる。森の大切さをいつの間にか忘れてい たのかも知れない。いや、形ばかりを追い求めて本質的なものを置き去りにしていた だけなのかも知れない。草を避け、木々を避け、獣を避け、今までの私はそれが保護 だと思っていた。それが優しさだと思っていた。だが、それは傲慢だったのだ。私は 森に生かされている。それを忘れてただ形式だけを真似たとて、真の森の一員になれ るはずがない。清も濁も同じように受け入れねば森の心を知ることは出来ぬのだ。
(モエルティマ博士……我が偉大なる師よ)
 目の前に、光り輝く一輪の花が現れる。私は跪き、それに触れた。瞬間、全身 が光に包まれ、私の意識はあの場所へと戻るのだ。  
――ウィルド君、大自然はいつでもあなたを包んでくれますよ――
 最後の博士の言葉が、懐かしかった。
「うえぇぇぇぇん! ウィルド様ぁ!」
「……教主」
 ウィルドはすぐ間近で泣き声が聞いた。ノエルに違いなかった。無念そうな呻 き声は使徒達だ。フリエの声は聞こえないが、すぐ近くで沈んでいるのが分かる。今 の彼の視界は真っ暗だ。目は開いていない。だが、周囲の状況を何故か的確に捉える ことが出来た。
 ウィルドは自身の感覚の変化を全身で感じていた。今までは感じなかった、大 地の動悸大気の息遣い、森の鼓動が耳を、鼻を、手を、あらゆる部位を通じて知覚す ることが出来る。ウィルドはそれを驚くと同時に、確かな進化と受け取った。今は亡 きモエルティマ博士が最期の力を与えてくれたのかも知れない。
 未だ目は開かれないが、必要なかった。今や全身が、そして森が彼にあらゆる ものを教えてくれる。立ち上がるのならば今を置いて他にない。
「ぬぅ!」
 突如、死んだと思われていたウィルドが声をあげたことに、周囲にいた全ての 者が驚愕した。ウィルドは度肝を抜かれた周囲のことなどお構いなしに、ゆっくりと 立ち上がった。そして、今まで閉じられていた目がカッと見開かれる。その姿はとて も死に体の人間ではなく、確かな生命力に溢れていた。
「教主! これは奇蹟か!」
「ウィルド様ぁ!」
「……父さん」
 それまで絶望に喘いでいた使徒やノエル、フリエが喜びの歓声をあげる。
「そんな馬鹿な!」
 これに驚いたのはヴェイドだ。確かにとどめを刺したと思っていたのだ。
「どうした? まだ終わってはいないようだぞ」
 ウィルドがゆっくりと一歩踏み出すと、破れたローブの端から穴の空いたマ ハールクの写本が零れ落ちた。右腕を負傷して以来、懐に戻しておいたこの本が命を 助けてくれるとは。
「ふっ、私は余程悪運が強いらしいな……」
 ウィルドはヴェイドを睨み付けた。対するヴェイドも死に損ないとばかりに睨 み返したが、そこで異変に気付く。
(こ……こいつ! 本当にさっきまでの奴か? 気配がまるで別人……!)
 ヴェイドは感じ取ったのだ。今までのウィルドには無かった、全く異質の闘気 を。
「へっ! 勿体ぶって復活したところで死に体じゃねぇか! 勝負は決まってる ぜ!」
「ならば試してみるが良い! 例え肉体の九分九厘が死んだとて、今の私には大 自然の大いなる加護が付いておる!」
「ぬかせぇ!」
 ヴェイドが天高く飛び上がった。ウィルドは今までのように目で追うことはせ ず、静かに目を閉じた。そして森の声 を全身全霊で受け止める。
(森の鼓動……大地の動悸……大気の息遣い……聞こえる 、聞こえるぞ!)
 森の持つあらゆる生命の動きを悟ったウィルドはその中に微妙な違和感 を感 じ取った。それこそが眼前に迫る敵、ヴェイドだった。
「見えたぞ!」
 上空背後――完全に有利な位置を取ったヴェイドは前足を繰り出した。だが、 ウィルドはゆっくりと振り返ると、左の拳を繰り出した。
 ドゴッ!
 ウィルドの放ったそれは完璧にヴェイドの腹部に命中する。ヴェイドが目を見 開いて悶絶する。
「ぐはぁっ!」
 かつて無い衝撃を喰らったヴェイドはそのまま地面に崩れ落ち、ごろごろと転 がった。
「し……信じられねぇ! この俺の動きが、人間如きに見えるはずが……」
 ヴェイドは悶絶しながらもウィルドを睨み付ける。ウィルドは目を閉じ、静か に語り出す。
「例え、目で追うことが敵わずとも、我が肉体、魂を大自然に預け、彼らの声を 訊けば悟れぬものなどない」
「ふ……ふざけやがって! そんな無茶苦茶な理屈で負けてたまるか!」
 ヴェイドが渾身の力で飛び上がる。すぐさま茂みに消え、木々の間を高速で移 動する。
「もう止めるが良い。既に貴様に勝機は無い!」
「うるせぇ! 俺は……黒兎一族族長、ヴェイドだぁ!」
 頭上を取ったヴェイドが前足を繰り出す。だが、今のウィルドにはそんな攻撃 はもはや通用しない。ウィルドはすかさずカウンターに拳を繰り出した。だが――
「まだだぁっ!」
 何とヴェイドはウィルドの拳に前足を乗せるようにしてバランスを整えると、 そのまま後ろ足による回し蹴りに移行したのだ。勿論、狙いはウィルドの首である。
「むっ!」
 攻撃の変化にウィルドが一瞬呻く。が、ウィルドはそこで目を見開いた。
「ぬおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
 ウィルドは気合いと共にほとんど動かなくなった右手を無理矢理動かし、後ろ 足が首に到達する前にヴェイドを掴む。
「何だとぉ! そんな馬鹿な!」
 驚愕するヴェイド。ウィルドはそんなヴェイドを掴んだまま、右手を地面へと 向けて強烈に叩き付けた。
 ――否、叩き付けようとした。実際の所は寸での所で止め、ヴェイドにとどめ を刺さなかったのだ。右手に掴まれたまま、ヴェイドが絶叫した。
「何でだよ……何で情けなんか掛けるんだよ! どういうつもりなんだよ!」
 戦士の誇りを汚されたと怒りを露わにするヴェイドに対し、ウィルドは冷静に ヴェイドを叩き付ける予定だった場所を指差した。首を回し、そこを見やると――
「……んなっ!」
 そこには一輪の花が咲いていた。風に吹かれ、今にもちぎれそうな弱々しい花 が咲いていたのだ。ヴェイドが目を見開いた。
「……まさか、これだけの為に……これだけの為に俺にとどめを刺さなかったの か?」
「大自然の力が私に力をくれたのだ。例え花一輪……無下にはできぬ」
 それを聞いたヴェイドががっくりと項垂れた。
「……負けだよ。完全に……俺の負けだ」
 負けを認めてからのヴェイドは潔かった。ノエルや使徒達をあっさりと解放 し、ウィルドの手当もさせた。最初はぎくしゃくしていた両者だったが、最後にはそ れなりに馴染んでいた。
「そもそもお前達は何者なのだ? 何故、喋る?」
 会話の中でウィルドはそう訊ねた。するとヴェイドはぽつりぽつりと語り出し た。
「俺たち黒兎一族は言わば森の防衛隊みたいなもんだ。発祥は二千年以上も 前……森の人、ノエリット・ヴァーンによって生み出されたんだ。俺達はなりは兎の 姿をしているが、中身は全然違う。外見だけが兎に似せて創られたんだ。その方が森 で生活しやすいしな。ノエリット・ヴァーンの魔力によって俺たちは喋ることが出来 るようになったし、並の動物以上の能力を手に入れることが出来るようになった。森 の人がいなくなった、俺達の現在の役割はこの領域……つまりエンシャンルオートの 断崖絶壁を封鎖することにある」
 そこまで説明するとウィルドが疑問を口にした。
「何故に断崖絶壁を封鎖するのだ?」
「単純に危険だと言うこともあるが、最近はあそこを中心に時系列の歪みが発生 してやがる。下手に手を出せばどうなるか見当もつかねぇ」
「むぅ……しかしあそこを通らねば三道の一つを踏破することは出来ぬ。無理に でも突破するしかあるまいな」
 ウィルドの物言いにヴェイドが噛み付いた。
「や、止めとけ! 平常時でもやばいってのに、今はゾルキーの怪鳥共がうじゃ うじゃしてるぜ!」
「ゾルキーの怪鳥? 何だそれは?」
「身の丈2メートルを超える化け物鳥だ。知能は高くねぇし、特別タフって訳で もねぇが、場所が場所だけに対処しづらいし、何より向こうには翼がある」
 ヴェイドの言葉にウィルドは眉一つ動かさなかった。
「しかしそこ以外に道は無い。行くしかあるまいな」
「本気かよ……。そりゃそうと……あいつらどこ行ったんだ?」
 とヴェイドが探しているのはノエルとフリエである。結局煤だらけだった一人 と一匹は今度こそ水浴びに行ったのだった。すると噂をすれば、である。二人がさっ ぱりした様子で帰ってきた。
「ただいまですぅ!」
 そこにはようやく顔が白くなったフリエと全身が白く戻ったノエルがいた。そ れを見てヴェイドが目を剥いた。
「白兎一族!」
 その単語に聞き覚えの無いウィルドがヴェイドに訊ねた。
「何だ、その白兎一族というのは?」
「……俺達と同じく森の人によって創り出された生物だよ。ただし、俺たちが戦 闘用なのとは違って向こうはペット、召使い用だ。ノエリット・ヴァーンはテレパ シーで会話できるから、本来であれば声は出ない筈なんだが……とは言え声帯機関は 付けられてるから、ちょいと魔術かなんかで魔力を注いでやると活性化して喋れるよ うになるけどな」
「なるほど……ノエルが喋っていて且つ黒かったから黒兎一族と間違えた訳か」
 ウィルドがうんうんと頷いた。ノエルは白くなった身体をウィルドに擦り寄せ た。その後、ヴェイドの前に立って怒鳴った。
「んもう! 勘違いで誘拐するなんて酷いよ!」
「なっ! 俺は黒兎一族の族長としてお前を助けてやろうとしてだなぁ!」
「そんなの頼んだ覚え、無いモン!」
「くそ……大体白兎ならそうだって初めから言えよ! 紛らわしいことすっから 悪いんだろうが!」
 と、賑やかな会話を続けた。それを笑いながら見ていたウィルドだったが、そ ろそろ出発しようと立ち上がった。ウェンスターやロースティンも黒兎の手当が功を 奏し、自由分に復帰可能だ。
 ウィルドが立ち上がったのを見て、ヴェイドはウィルドに訊ねた。その瞳には 大きな決意が秘められていた。
「行くのか?」
「うむ。我々には立ち止まっている暇など無い」
「なら……俺にとどめを刺してからにしてくれ」
 ヴェイドの言葉にウィルドの動きが止まる。
「俺は戦士として戦い、そして負けた。戦士の敗北は死を意味する。俺はそうし て生きてきた。だから、戦士として情けを掛けるなら、俺を殺してくれ……」
 聞くウィルドの肩が震えている。しばらくして振り返ったウィルドは拳を振り 上げ、
「この……」
「バカっ!」
 バチン! 軽快な音と共にヴェイドの頬が少しだけ腫れる。叩いたのはノエル だった。ウィルドは自分の拳の置き場所に困り、少しの間硬直していた。
「な……な、何すんだ!」
 いきなり頬を叩かれ、ヴェイドがノエルに掴みかかった。だが、この時ばかり はノエルの方が勢いが強かった。逆にノエルは両前足をぶんぶん振り回してヴェイド を何度も叩いた。
「バカバカバカ! 何ですぐに死ぬとか言うのさ! ウィルド様がなんで君を助 けたのか考えないの! バカバカバカバカ!」
「うわっ! いてて、馬鹿、止めろ!」
「ウィルド様の気持ちも考えないで……うぇ、うぇぇぇぇ……」
 泣きじゃくるノエルの肩を叩き、ウィルドが後ろへ下げた。そして自らはヴェ イドの前に立つ。
「ヴェイドよ。ノエルの言う通りだ。何故、生と死の二面しか考えぬのだ」
「俺は……戦士だ。戦士にゃ生きるか死ぬかしかねぇ!」
「成る程……貴様にはそれしかないというのか。ならば仕方あるまい……」
「ウィルド様!」
 ノエルが驚愕に思わず叫ぶ。ウィルドはにやりと笑い、手を差し伸べた。
「ならば貴様の命、この私が貰おう。今日より貴様の命は私の物だ」
「何?」
 ヴェイドが首を傾げる。
「私は勝者だ。ならば生殺与奪の権利があるのだろう? 今日より貴様は我がグ ディアルメフ第20使徒となったのだ。まぁ、一族がある故、遠隔地会員で構わん が……」
「……………………」
 ヴェイドは言葉も無く固まっている。が、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「……なるほど、勝者であるあんたの命令がなけりゃ死ねねぇって訳か。面白ぇ な!あぁ、いいぜ! どこへでもついてってやる! あんたがくたばれというその日 まで、俺は生き続けてやるよ!」
 ヴェイドの言葉にウィルドは満足げに頷いた。
「うむ! 決まりだな。しかしどこへでも、とは……一族は良いのか?」
「副族長に任せるぜ! 俺はあんたが気に入った! その使徒とか言うのにも なってやろうじゃねぇか!」
 ヴェイドが使徒に加わり、ノエルが喜んでヴェイドの手を握る。
「わーい、良かった。宜しくね」
 握られた手をじぃっと見つめ、しばらく硬直していたヴェイドはやがて恥ずか しそうに手を振り解いた。
「あー! 何するのさ!」
「う、うるせぇ! 女なんかと手ぇなんぞ握ってられるか!」
「あー! 女だからって馬鹿にしたぁ! 酷いよ!」
 文句を言い合う二羽を眺めながら、ウィルドは今更ノエルが女であったことに 気付いて少し驚いていたりする。まぁ、ともあれ、新たな仲間も出来たことだし、出 発の準備をしなければならない。これから、もっと厳しい試練が待ちかまえているの だから。
 ところで、ヴェイドとの戦いが終わった後、急に大自然の声が聞こえなくなっ たのだが、やはり付け焼き刃では無理と言うことのなのだろうか。
 一人思索に耽るウィルドであった。





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