2003年度第一期リレー小説
樹 黄砂
「The Tale of the Casket」(仮:そのうち再検討しましょう)第5回
アズレセアは――否、不満は掃いて捨てることも出来ないほどあったものの、平穏であることは間違いなかった日常を奪われ、己の名すらも奪われて「青玉の姫」となった女は、窓に向けていた身体をゆっくりと反転させた。
――広い部屋。美しい部屋。
老婆のこの部屋で過ごせとの言は、少なくとも複数日この部屋で生活しろという意味だったのだろうか。卓と椅子、書き物机やクローゼット、笑えることには覆いをかけられた鏡台までもあった。この部屋で、この屋敷で、何のために、誰のためにこの身を飾れと?
そして部屋の一角に目をやれば、そこにあるのは、大きな大きな寝台。「豪華な天蓋付きの」。
――豪奢で華やかで、忌まわしい鳥籠。
その寝台は、この悪夢のような現実に放り込まれた際に、彼女が横たわっていたものと酷似していた。もちろん動転していたこともあり、あの森の中の寝台の詳細を覚えているわけではない。ただ、特徴的な形の天蓋と、都で指折りの資産家である彼女の家でも見たことのないほどふんだんに使われたフリルには見覚えがあった。
やはり、と思い、そしてなぜ、と思う。やはりあの寝台もこの館も突き詰めれば一所に収束するのだ。多分、あの仮面の怪人に。されど、ふと疑問が生じる。それならば、なぜ仮面の怪人は彼女を森の中に放置するような真似をしたのだろう。初めからこの館に連れ込めばよかったであろう、もしかしたら彼女は、館とは反対方向の道をたどっていたかもしれないのに。事実、彼女は初め、館に背を向けたのだ。不安と恐怖に耐えかね、みすみす引き返してしまったが。
そこまで思考を巡らせ、自己嫌悪に陥りかけた時、部屋の扉がノックされた。彼女は思わずびくりと背を震わせ、軽く唇をかんだ。多分あの老婆であろう。確か先程、食事を、と言っていた。
もし返事をしなければ、と考える。老婆は自分を放っておいてくれるのだろうか。――いや、おそらくそんなことにはなるまい。彼女の家には、こちらの返事もないまま部屋に入って来るような無礼な使用人はいなかったが、ここは違う。彼女は客という名目の囚人で、老婆はその看守。囚人に礼を保つ看守などいない。
「……はい」
ともすれば怯えにかすれてしまう声を励まし、彼女はノックに答えた。すると、待ち構えていたようにするりと重厚な扉が開き、食事の載ったワゴンと共に老婆が現れた。老婆は彼女の姿を認めると目礼し、「お食事をお持ち致しました」と短く言った。そして卓の上に、豪勢な――それこそこの部屋に相応しい食事を並べた。
「どうぞお召し上がり下さい」
「……欲しくありません」
それは真実だった。最後に食事を取った時からどれほど経っているのかは分からない。けれど恐怖と不安と緊張感で、全く空腹は感じていない。それに、このような怪しげな館で饗される食事など、口にしたくもない。
老婆は皺に埋もれた顔を、困ったように小さく歪めた。
「あなた様を害する意志はございません。それよりも、お食事を召し上がらなければ、お体に障ります」
「……」
「どうか」
「……私は、これからどうなるのですか」
気を付けたつもりだったが、声が揺れてしまったかもしれない。彼女は平らかなスープの表面に目を落としたまま、老婆に尋ねた。
尋ねるというよりもこれから待ち受けているものに対する虚勢のような抑揚に、しかし老婆は欠片の動揺も現さずに返した。
「それは、私には。ご主人様のお考えでございますので」
また、「ご主人様」だ。彼女をさらい、この場に閉じ込めた――得体の知れない、存在。変態貴族か、十年前に世間を騒がせた怪人か、それとも全く別の何者かなのか。
――私は、知らない。
彼に対するこれっぽっちの知識もないのに。向こうはどうやら彼女のことを知っているようで、老婆を通じて間接的に支配の手を絡ませてくる。
理不尽だ。彼女は小さな怒りの炎が、ぽつんと胸の奥に生じたのを感じた。恐怖と、不安と、緊張と、そして怒り。彼女は唇をかみしめた。
「お食事がお済みになりましたのなら」
彼女の心中を知ってか知らずか、老婆は小さくはっきりと「青玉の姫」に告げた。
「ご主人様があなた様にお会いになります」
はっと顔を上げた彼女の目をしっかりと捉え、老婆は「ですから」と促す。彼女はおずおずとスプーンを手に取った。
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