2003年度第一期リレー小説
村崎 永
「The Tale of the Casket」(仮:そのうち再検討しましょう)第4回
面影、歌声、遠い足音。淡い光が集まり、そして散る。――不確かな印象だけを残して、幸福な夢は終わった。夢の余韻を感じながらゆっくりと目を開けた彼女は、一瞬まだ夢を見ているのだろうかと考えた。目の前には見慣れぬ景色が広がっている。鬱蒼と茂る緑の森。その色に映える白亜の小館。小さな前庭には、形よく整えられた薔薇の低木が幾何学模様を描いており、その中央には二頭立ての馬車がやっと通れる幅の道が通っている。一見して、富裕な貴族の別荘といった趣だが、見覚えはない。辺りには人の気配が全くなく、どこか非現実的な雰囲気が漂っていた。何より不自然なのは、その道の上の館を見晴らせる位置に、豪華な天蓋付きの寝台があることだ。彼女はその中で目覚めたのだった。
それが紛れもない現実であることに気づいた瞬間、恐怖の記憶がめまぐるしく蘇った。黒い影。甘い声。不吉なしろいかお。先刻の夢が残した柔らかな光は、もはや欠片も感じられない。目の前に暗幕が下りたかのような恐怖に彼女は目眩を覚えた。私はさらわれたのだ。仮面の怪人に。
空の下にぽつんと置かれた寝台は何やら不気味に思えて、彼女は早々にそこから下りた。そしてまず館を見、さらに振り返って森を抜ける道を見た。どちらに進むべきだろう。見える限り、道はまっすぐに続いている。森の果ては無論見えない。ただでさえ、深い森は恐ろしい。気の進む道ではなかった。しかし……館は見るからに怪しい。迷った末、彼女は森に向かって歩き始めた。
日は傾き、森の影はさらに色を深めた。いくらも行かぬうちに、彼女は自分の選択を後悔し始めた。今にも藪の陰から何かが飛び出して来る気がする。鳥の声さえおどろおどろしい。獣の遠吠えも聞こえてきた。第一、怪人が森に潜んでいないとどうして言えよう。自分は弱く、頼りない。彼がここにいれば、と彼女は何度も願った。一人でいるのがたまらなく怖かった。今ならば、あの中身のない婚約者ですらありがたく思えるだろう…そう考え、すぐに否定する。当てになる男でないことは既にこの目でも確認したではないか。自分の弱気を嗤う気力も、もうなかった。何度目にか、不安に駆られて彼女が振り返った時、はるか小さくなった館にほっと灯がともるのが見えた。人がいる。あそこに行けば。そう思うともう我慢できなかった。彼女は光を指して、来た道を走った。
恐る恐る扉に近づくと、それが内側から開いて彼女をぎょっとさせた。
「お待ちしておりました、青玉の姫」
深々とお辞儀をして、小柄な老婆が言った。やはり、人がいた。安堵と恐怖が同時に彼女を襲った。しかし少なくともあの怪人ではない。例えその言葉が、怪人との繋がりを匂わせていても。
「こ、こはどこなのですか? 私は、一体どうしてここにいるのです?」
やはり動揺が表れてしまう。
老婆は表情を崩さない。
「私はこの館を預かる者。あなたさまはこの館のお客人。どうぞ、くつろいでお過ごしになられますよう」 老婆は質問に答えていない。彼女は声を荒げた。
「私はここに用などありません。都に帰るすべを教えてください!」
「お帰りになる必要はございません。青玉の姫は、ここのお客人。これは決まったことでございます。あなたさ まを不幸からお救いするためでございます。」
老婆は淡々と言う。訳がわからない。ここにいることが私の不幸なのに。
「あなたさまを不幸からお救いするためでございます。」 老婆は繰り返し、彼女の手を取った。皺よった手は、見た目よりしっかりしている。そのまま彼女を引っ張るように歩き出した。振りほどこうともがくが、まったく効果がない。悲鳴をあげると、老婆は立ち止まり、とまどったように彼女を見上げた。その表情を見るうちに、彼女の老婆に対する恐怖は幾分和らいだ。老婆が頑として彼女の手を離さないので、結局彼女は老婆に引かれるまま館のなかを歩くことになった。
「どうして私を青玉の姫と呼ぶの?」
沈黙に耐えられずに彼女が尋ねると、老婆は歩みを止めて振り返った。
「ここのきまりでございます。アズレセアさま、とお呼びすることはご主人さまの特権となっております。ご自 身もお口にされませぬよう」
老婆はにいと笑った。
ご主人さま? とっさに思い浮かんだのはやはり、あの怪人の姿だった。
老婆に逆らいきれず、彼女は促されるままに館の一室に足を踏み入れた。美しく設えられた広い部屋だ。扉が背後で閉まる。慌てて取っ手に取り付くが、扉はびくともしなかった。老婆の声が廊下から聞こえた。
「館にお慣れになるまで、この部屋で過ごされませ。すぐにお食事をお持ちします」
遠ざかる靴音を聞きながら、彼女は途方に暮れた。
結局みすみす敵の手に落ちてしまった。私は一時の恐怖に負けて、望みを永遠になくしてしまったのだろうか。しかし、窓の向こうに広がる森は、どこまでも果てしがなかった。あのままあの道を進んでも、生きてはいられなかったのではないか。今は少なくとも、こうして灯りの中にいる。そう思ってみても、迷いは消えなかった。いつまで生きていられるだろう。
かつて都を騒がせた連続失踪事件。その犯人として仮面の怪人の名が囁かれるようになると、物見高い宮廷人たちはこぞって噂話に花を咲かせた。怪人の目的、その正体、娘たちの行方について。その中にはこんなものもあったという――曰く、彼は若い娘をさらっては花嫁にし、一月が経つと殺してしまうのだと。この館は、あまりにもその伝説にふさわしくないか?
しかし、それは昔の話だ。恐怖に身を震わせつつ、彼女は否定しようとした。伝説の怪人が相手では、あまりに望みがない。長い間沈黙していた怪人が突然また現れるとは、不自然ではないか。伝説をなぞった他人の仕業かもしれない。これはもしや、どこぞの変態趣味の貴族が演じる危険な茶番劇ではないのか。そう思いつくと、この考えがもっとも妥当なように思えた。ただの誘拐にしては手が凝っていて、変質的だ。馬鹿馬鹿しい演出と、仰々しい舞台。しかしこの考えも、あまり希望に満ちたものとはいえなかった。私はどうなってしまうのだろう。このまま父にも彼にも会えぬまま、変態貴族の慰み者になってしまうのだろうか? それともあの恐ろしい仮面の怪人に…? 絶望的な気分のまま再び窓の外を眺めると、前庭とそこを通る道が見下ろせることに気づいた。あの寝台は既に消え去っていた。
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