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2003年度第一期リレー小説   超蜜柑

「The Tale of the Casket」(今までのご愛読ありがとうございました)最終回 



 時間は遡る。ドゥルクレンがアズレセアと会う少し前、カール・ツァイスの人形から最後の情報を受け取ったドゥルクレンは、四肢を投げ出すようにして近くの木に寄り掛かって蹲った。彼の頭上を覆う枝の間から、青白い月光が彼を薄暗く照らしている。
 ドゥルクレンは天を仰ぎながら、これから自分自身がどうすればいいのかを考えていた。彼の心は今や二つに割れていた。一つには、巨匠の悲願である奥方様の復活の助力をすること。これは今まで彼が行ってきた事だ。ここに来てもう一つの思いが生まれている。否、今まで巨匠の御為と思い、心の奥底に閉じこめていた思いだ。
 奥方様への思い――それが彼の中にはあった。彼女の言葉、ドゥルクレンに向けられた最期の言葉を思い出す。
 ――命を大事にする、優しい人になってね。
 反芻し、言いようのない慚愧の念と自分に対する憤怒を覚えた。彼は未だに奥方様の言葉を為し得ていない。それどころか、巨匠の指示とは言え、それを踏みにじる事ばかりしている。それが奥方様を蘇らせる事だとしても――
 ドゥルクレンは自嘲気味に微笑んだ。仮にそれが奥方様を蘇らせる事だとしても、それをあの方が望むだろうか。そんなことは自明の理だ。望むはずがない。誰よりも生命を重んじたあの方が、誰かの犠牲のもとに自分の生命を手に入れることなど望むはずがない。
 巨匠もそのことは分かっているだろう。よもや奥方様の心を巨匠が知らぬはずがない。しかし巨匠は儀式をするつもりだ、青玉の姫を使って。それは400年という歳月が彼にその中断を許さないからだろう。
 ドゥルクレンは左手の中の赤玉を見やった。老婆の命を司っていた赤く光る宝玉。かつてラドゥラスクから巨匠に手渡された品だ。
 老婆はやはり巨匠の計画に協力するだろうか。老婆は巨匠に最も忠実だ。だが、巨匠の行動が如何に奥方様を悲しませるか、そして如何に現実味のない無謀なものかを理解する知性があった。だから彼女は悩んだのだろう。
 彼は胸に手を当てた。青玉の姫はどうだろうか。彼女はどうやら自分自身で立ち上がり、自分の成すべき事を見つけたようだ。巨匠に自ら会うことで、巨匠との決着を自分なりに付けようとしている。
 キュリアベルはどうも何を考えているか分からない。恐らく明確な意思はないのだろうが、それ故にどう転んでもおかしくない。しかし、青玉の騎士を破壊するだけの力が備わっている以上、そう無視しておくわけにもいかない。
 結局、どれだけ他人について考えても自分の結論は出ない。ドゥルクレンは嘆息し、よろよろと立ち上がった。そして、館へと続く道を睨み付けた。
 まずは青玉の姫や巨匠に会ってみることにしよう。そうすれば自ずと自身の歩む道が見えてくるかも知れない。
 ドゥルクレンは強引に自分を納得させると、おぼつかない足取りのまま、先程と同じように館へと急ぐことにした。

「……あなたと一緒にしないで下さい」
 巨匠を拒絶するように視線を反らしたキュリアベルは、それ以上の会話は意味がないと言わんばかりに口を閉ざした。
 巨匠はそれを咎めるでもなく、ただじっとキュリアベルを凝視していた。
 暫くの間、静謐な時間が二人の間に訪れた。それはキュリアベルにとっては無限のように感じられたし、巨匠にとってはそれほど長い時間には感じられなかった。
 最初にその静寂に耐えきれなくなったのはキュリアベルの方だった。
「……失礼致します」
 これ以上議論をする気はない、と改めて意思表示し、彼女は居心地の悪いこの部屋から一刻も早く立ち去ろうと足早に歩き出した。扉は巨匠の背後にあり、キュリアベルは緊張を必死に隠し、平静を装いながら巨匠の脇を通り抜けた。巨匠が何かを仕掛けてくればすぐに対応できるように、魔術の準備をしながら。
 が、巨匠の行動は意に反して攻撃的ではなかった。
「だが、お前は私に協力するだろう」
 出し抜けに発せられた言葉に、キュリアベルは足を止めた。冷めたような、軽蔑したような視線が巨匠に突き刺さる。
「過去の契約を言っているのですか? 残念ですが、それは無駄です。何故なら、私にとっての最も意味のある復讐とは、この状態を未来永劫続けることなのですから」
 吐き捨て、キュリアベルは再び歩き出す。巨匠は苦笑しつつも振り返り、更に言葉を続けた。
「いや、違うな。お前の中に私への憎悪がある限り、お前は私の申し出を断れないはずだ」
 キュリアベルの憎悪に満ちた相貌が巨匠を射抜いた。
「……この私が復讐の為にあなたに従う、とでも言う気ですか?」
「違うか? お前は常に本心を出さぬ。だが、どれほど巧妙に隠そうとこの私には無駄なことだ。己自身に問えば分かる」
 巨匠はキュリアベルの瞳を覗き込んだ。どんな闇よりも深い巨匠の瞳に吸い込まれそうになったキュリアベルは再び視線を反らした。
「仮に私が奥方様の復活を望んでいたとしても、私がそれをすることはありません」
「何故にだ?」
 キュリアベルは今まで飽きる程、散々繰り返して言葉を口にする。
「簡単なことです。奥方様がそれを望まないからです」
 キュリアベルの言葉に巨匠は口元を吊り上げた。
「謳うな、人形めが」
 それまでの淡々とした口調とは違い、今度の巨匠の言葉には僅かに憤りが混じっていた。恐らく、人形であるキュリアベルが奥方の気持ちを分かった風に語るのが気に入らないのだろう。
「会ったことすらない貴様に何が分かる?」
 キュリアベルは嘆息し、巨匠に再び向き直った。
「……私はあの方に会ったことがあります」
 聞いて巨匠はくつくつと堪え切れぬように笑い始めた。巨匠の意図する所が読めず、キュリアベルは僅かに眉を顰めた。
「何が、可笑しいのです?」
「くっくっく。これが笑わずにいられるか。お前は何故にそう断言する? 何がお前をそう思わせる」
「あなたと出会う以前に、私は小さな村で……」
 巨匠は五月蠅そうにキュリアベルの言葉を遮った。
「その記憶は何によってもたらされた? お前の記憶か? ラドゥラスクの記憶か?
 それともお前の胸に秘めたる宝玉の記憶か?」
 キュリアベルが一瞬顔色を変え、己の胸に手を当てた。そんなキュリアベルに追い打ちを掛けるかのように巨匠は鋭い眼差しを向けた。
「……私の記憶に決まっています」
「ほぉ、ラドゥラスクの記憶が混在し、かつお前の肉体は一度雲散霧消しているのにか。今お前を突き動かしているものは、ドゥルクレン達と同じ記憶を蓄積する宝玉だけではないか? 言ってみろ、私の記憶とは一体誰の記憶だ」
「……キュリアベルの、記憶です」
 キュリアベルの声が段々と小さくなっていく。だが、巨匠は手を緩めることはなかった。
「ならば問う。貴様の言うキュリアベルとは何者だ? お前は自分の存在の意味を分かった上で言っているのか?」
「……確かに私はあなたに創られました。しかし、それ以前に私という少女が存在していたことは確かです!」
 雑念を振り払うかのように、初めてキュリアベルは声を荒らげた。が、その顔には困惑の表情が隠せないでいた。
「ならば再び問おう。それ以前の記憶とは? 所詮貴様の精神など、ラドゥラスクや私によって左右されたものに過ぎぬ。ではどうする? 精神を形作る記憶とやらも我々が操作したかも知れぬではないか」
 巨匠の決定打にキュリアベルの目が見開かれた。
「そ……そんなはずはありません。私は……ちゃんと覚えています!」
「堂々巡りは止めたらどうだ、キュリアベルよ。お前のその記憶とやらがどこでどう改ざんされているかなどお前には分かるまい。その小さな村での一件とやらも、もしかしたら私やラドゥラスクが都合よく植え付けただけかも知れんのだぞ」
 キュリアベルは凄まじい憎悪の視線を巨匠に向けた。巨匠はそんなキュリアベルを侮蔑を含んだ哀れみの眼差しで見やっている。
「それだけではない。お前の現在の精神がどうしてお前が生きてきた過程で生まれたものだと断言できる? それすらラドゥラスクや私の介入がなかったと証明できるものではない。第一、お前には根幹の記憶があるまい?」
「根幹の……記憶?」
「左様。お前でも……それ以前のラドゥラスクでもない、正真正銘のお前という少女の記憶など持ち合わせてはいまい!」
 雷撃のような一喝だった。キュリアベルは完全に冷静さを欠いて、頭を頻りに掻き上げながら記憶を辿った。
 違う、私はキュリアベル。小さな村で生まれた……いや、違う。この時は既にラドゥラスクの介入を受けていた。それ以前、それ以前の記憶……。ない。ないよ、ないよ、ないよ、全然覚えてないよ。
「あ……あああぁぁぁぁぁぁぁ!」
 初めてのキュリアベルの絶叫だった。巨匠はそんな彼女に一瞥くれるわけでもなく、彼女の周りを歩きながら淡々と語り始める。
「己をすら知らぬ者が他人の心など知り得るはずがあろうか。愚か者め。お前はただ与えられた知識と記憶を盲目的に信じて疑わない、単なる人形に過ぎぬ。何故自分の存在を疑わぬ? 何故自分の出生を疑わぬ?」
「止めてぇ……もう止めて……」
 キュリアベルの弱々しい嘆願も彼は聞き入れない。
「いいや、止めぬな。お前はドゥルクレン達と同じ存在だと勘違いしているようだ、身の程を教えてやろう。貴様はドゥルクレンなどと言った生粋の人形とは訳が違う。所詮、野垂れ死んだ薄汚い魂を加工しただけの粗悪品に過ぎぬ。貴様にこの館を任せたのとて、貴様を重く用いたからではない。寧ろその逆、貴様はドゥルクレン達に監視されていたのだ。お前は気付く様子もなかったがな、この木偶め」
 巨匠の怜悧な言葉はキュリアベルの心に深々と突き刺さる。キュリアベルはもはや蹲り全身を震わせる、雨に濡れた仔猫に成り下がるしかなかった。
「……分かったか。お前などこの私からすれば取るに足らない存在なのだよ。決して私に刃向かっていい存在ではないのだ」
 キュリアベルは巨匠の言葉が耳に入っているのか、引きつった笑みと壊れ掛けた瞳を巨匠に向け、縋るように足下に取り付いた。
「……教えて下さい。私は……誰なんですか?」
「知らぬな。その問いには自分で答えるが良かろう」
「お願いします! 私は……何を信じれば良いのですか? 記憶を……どの記憶を信じれば良いのですか?」
 キュリアベルを払い除け、巨匠は踵を返した。
「己で考えるが良いわ。第一、お前は今まで自分にとって都合の良い記憶だけを信じて生きてきたのであろう? 何も変わらぬわ」
「待って下さい! 見捨てないで!」
 嗚咽の混じった悲痛な叫びを聞き、巨匠の動きは止まった。再びキュリアベルの元までやってきて、蹲るキュリアベルを覗き込んだ。
「ならば一度己の目で見てくるが良いわ」
 巨匠の指がキュリアベルの額に触れる。その瞬間、キュリアベルの意識は闇の底へと落ちていった。

 私はいつものように朝日が昇ったのを瞼の向こうに感じて目を覚ます。目覚めはいつもはっきりとしていて、寝過ごしたことはない。私は母に起こされる前に着替えを終え、いつものように階下へと降りていく。
 一階では母が起き出して朝食の準備をしている。それを手伝うのが私の日課だ。慣れた手つきで手早く準備を済ませ、私は卓に付いた。すぐに父も起きてきて、家族三人のひとときの団欒が始まる。
 特にめぼしい話題もなく、食事を終えた私は先頃から飼っているツバメの餌をあげに行った。私は感情表現に乏しい子で、周りからは何を考えているのか分からないとよく言われる。でも、そんな私でもこのツバメの雛と一緒にいると頬が弛む。感情の起伏の少ない私を心配した母が与えてくれたものだが、それはかなり成功していると思う。
 ツバメの雛はまだ弱々しい動きで餌を食べている。その内大きくなる。そうしたら一度自由に空を飛ばせてあげたいと思う。そうしたらきっとこの子も喜ぶから。
 私はツバメの雛に餌をあげ終えると、いつもように村の外れまで水を汲みに行く。その後は母の家事の手伝いをし、昼食、夕食と取り、その都度ツバメの世話をした。いつもと変わらない一日を終えて、私は眠りに就いた。
 そうして私は来る日も来る日も過ごした。ツバメは少しずつ大きくなっていき、目に見えて元気になっていった。もう少しで飛べるだろうと思える程に。私はその時の事を考えると胸がどきどきして眠れなくなった。
 数ヶ月が経ったある冬の日、私のツバメは本当に大きくなり、もうすっかり大人になっていた。飛ぶにももう十分だった。私は羽根を少し広げているツバメを見て、きっとこの子は飛びたがっているのだろうなぁ、と思った。そして、飛ばせてあげようと思った。
 ――イイノ?
 私は頭に手を当てた。何故だろう、最近すっかり聞こえなくなった頭の中の声が、また聞こえるようになったのだ。これのせいで私はあまり物事に関心がなくなっていた。頭の中の声が私に何でも教えてくれるからだ。何度も事前に教えてくれるので、私はすっかりこの世界の物事に興味を無くしていた。ツバメを飼い始めてからはそんな頭の中の声はすっかり聞こえなくなっていたのに、どうして今頃聞こえるんだろう。
 きっとそれは頭の中の声の意地悪で、この子を飛ばせないようにしようとしてるんだ。私は自分の頭を軽く叩き、鳥籠を持ち上げた。それはついこないだまでとは違って、随分重く感じられた。私は軽く頷いて、窓からそのツバメを放した。
 ――ホントニイイノ?
 頭の中の声を忘れさせてくれるように、私のツバメは勢いよく飛び立ち、綺麗な弧を描いて大空を舞った。私はきっとそれを目を輝かせて見ていた。生まれて初めて、頭の中の声に教えてもらわない、純粋な感動だった。
 ツバメは自由を謳歌するように羽ばたき、私はそれを見て嬉しく思った。生き物がこんなに素敵なものだと、初めて気が付いた気がした。
 ――トバシチャッタネ、カワイソウニ?
 ――シンジャウヨ、シンジャウヨ?
 なのに頭の中の声はこんな意地悪を言う。私は少し気分が悪くなり、ツバメをそのままにして部屋に戻った。そして、その日はそのままにして眠ってしまった。
 ――イイノ、イイノ、イイノ?
 一晩中、頭の中の声は止むことはなかった。いつもはこんなにうるさくないはずなのに。どうして今日に限って五月蠅く喚き立てるんだろう。ツバメが元気に飛んで、私は凄く嬉しくて良い気分なのに。私は布団をすっぽり頭まで被って目を閉じた。少しすると、頭の中の声も聞こえなくなり、私は良い気分で夢の中に落ちていった。
 夢の中で私はツバメと一緒に飛んでいる。この広い大空を、青い大空をどこまでも自由に飛んでいる。私は隣にツバメがいることが凄く嬉しくて、いつもは見せない笑顔で両手を広げている。手を動かせば自由に飛べて、頬を撫でる風がとても気持ちいい。そんな素敵な夢を見ながら、私の身体は明日の朝日を待っていた。
 微睡みの中では私はずっと笑顔で過ごし、ずっと幸福な気分で過ごせた。でもそんな幸せな時間は終わり、私はいつもの通り目を覚ました。そう言えば、昨日ツバメをそのままにしてしまったと、私は慌てて別の部屋の窓まで行った。果たしてそこに籠はあったけど、その中には肝心のツバメはいなかった。
 まだ飛んでいるのかな、また飛びに行ったのかな、と思いながら朝食を取り、私はいつものように過ごした。水を汲みに行こうと外に出ると、人だかりが出来ていた。村の人達が輪を作るようにして、何かをひそひそ囁き合っていた。
「……逃げ出しちゃったのかしらね」
「――――ちゃんには聞かせられないわ」
「あんなに気に入ってたのに、可哀想ね」
 みんなが口々に私の名前を言いながら眉を顰めている。一体何のことだろう、私に関係のあることらしい。私はいつもの、あまり変わらない表情のまま、その人だかりの中へと入っていった。私が来たのを見て、みんながぴたりと話すのを止めた。みんなは私を哀れむような目で見ながら、少しずつその輪を崩してその場から離れていった。
 そうして人だかりが無くなると、私の目の前に飛び込んできた。私のツバメが地面に倒れているのが。
 私は一瞬何が何だかよく分からなくて、呆然と立ち尽くしてしまった。私は暫くしてからようやくそのツバメに近づくことが出来た。動悸は激しく、目の前が暗かった。手や足は震えていたし、息が余り吸えなかった。
 ――ア〜ァ、ダカライッタノニ?
 頭の中の声が私に告げる。今まで違って、凄く馬鹿にしたような感じで。
 ――ツバメハサムイトシヌヨ?
 ――ツバメハイキラレナイヨ?
 ――アンナニイッタノニ?
 ――イイノ、イイノ、イイノ、イイノ、イイノッテ?
 ――ア〜ァ、コロシチャッタネ?
 殺した? 私が?
 ――ソウダヨ、シッテタクセニ。オシエタノニネ。
 違う、私はそんなこと知らない。
 ――ウソダ、ウソダ。シッテイタ、オマエハシッテイタ。
 ――オマエガコロシタンダ、オマエガコロシタンダ!
 頭の中の声はそうやってずっと私を責め続けた。ずっとずっと、私が覚えていない頃に教えたのにとずっと責め続けた。私はその言葉に耐えきれなくて、ずっと耳を塞いでいた。でもねそれは全然意味のないことで、頭の中の声はずっと私を責め続けた。
 ――オマエガコロシタンダ!
 ――シッテタクセニ!
 ――オマエガコロシタンダ!
 責める言葉は続き、私は震えながら蹲っていた。父と母が私を慰めにやってきたけど、そんな時にも頭の声は私を責めた。
「ほら、そんなに泣かないで」
 ――ナケ、ナケ、ナケ、コノツバメゴロシ!
「泣いていても何も始まらないぞ」
 ――ナイテモムダダ!
 ――オマエガコロシタンダ!
「そうよ、燕の分もあなたは生きていかないといけないのよ」
 ――オマエガコロシタクセニ!
 ――ツバメヲコロシテオイテオマエハノウノウトイキルツモリカ!
 父と母の慰めの言葉に覆い被さるようにして、頭の中の声は責め立てた。父と母が何か言えば言う程、頭の中の声はそれより激しく私を責めた。その時の私は、両親の言葉よりも頭の中の声を聞いてしまった。小さい頃から、ずっと私に色々なことを教えてきた頭の中の声を。
 私は頭の中の声に心を引き裂かれそうになった。今まで感じなかった哀しさが、ここに来て一気に溢れだしてしまったように。私は人目も憚らずに泣いた。それが自分の勝手さで殺してしまったツバメの供養になるとでも言うように。
 ――コノヒキョウモノ!
 ――ナイテスムノカ!
 ――オマエナドイラナイ!
 ――キエロ!
 ――キエロキエロ!
 ――キエロキエロキエロ!
 頭の中の声は頻りに私に消えろと言ってきた。お前はもういてはいけない。お前は消えてしまった方が良いんだ。お前が消えて私に代われ、と声は言い続けた。私は絶え間ない呪詛を聞きながら、その通りわたしは消えてしまった方が良いと思った。私は埋められずにいたツバメの死骸を手に抱きながら、静かに目を閉じた。
 その時だった。
「ねぇ、そんなに泣かないで」
 声を掛けてきたのがあの人だった。同じ村に住んでいる人だ。逆光になっていたのか、私の目が涙で溢れていたのか、私はその人の顔がどうしても見られなかった。でもその人の口調は優しかった。
「あなたのツバメは、鳥籠を出れば自分が死ぬことを多分わかっていたわ。それでも、飛ぶことを選んだのよ」
 ――ウソダ、ウソダ!
 ――オマエガトバシタンダ!
 ――オマエガコロシタンダ!
 彼女の言葉は、頭の中の声と激しい戦いになった。
「ツバメはきっと行きたいから行ったのよ」
 ――ウソダ、ウソダ、ウソダ!
 ――オマエガコロシタンダ!
 頭の中の声は同じ言葉を喚いている。彼女が微笑んだ、気がした。
「鳥は私達よりか弱い生き物なんだから、死にはもっと敏感なはずでしょう?」
 ――ダマレ、ダマレ、ダマレ!
 ――オマエガコロシタンダ!
 ――オマエガ――!
 頭の中の声が段々と薄れてきた。それに従って私の目には生気が戻ってきたのかも知れない。彼女は段々と顔を近付けてきた。
「確かに、鳥籠の中で一生暮らせば、そのツバメは一生を全うできたかも知れないわ。でも、それが本当にツバメにとって幸せな事かしら?」
 ――セイヨリシヲエラブワケガ……!
 ――オマエガコロシタ……!
 ――オマエガ――!
頭の中の声が段々と弱くなっていく。
「ツバメは、最期の一瞬だけでもいい。大空を自由に飛びたかったのよ」
 それを聞き、私はようやく笑顔で頷いた。同時に頭の中の声が絶叫した。
 ――アトスコシダッタノニ!
 ――モウスコシデワタシガオモテニデラレタノニ!
 ――オノレ、オノレ、オノレ!
 頭の中の声は悔しそうに数回呻くと、そのまま弱々しく消えていった。私はもう一度顔を見やった。どうしても彼女の顔を見ておきたかった。
 でも。あぁ、でも! どうしても私には彼女の顔が見えなかった。そして不思議なことに、どうしても彼女の顔を思い出すことが出来なかった。どうしても。
 どうしても――
「どうだ、キュリアベル? 貴様の望む記憶とやらは」
 現実世界に戻された事を、キュリアベルは巨匠の声を聞いてようやく理解した。キュリアベルは方で大きく息を吐いて、その場に頽れている。
「貴様の望むその記憶。果たして真の記憶なのか、貴様に分かるか?」
 巨匠の重苦しい言葉がキュリアベルの胸を抉る。何か言い返したいが、信頼することが出来ない自分の記憶の為に何も言い返せない。
「……この記憶は、偽物なのですか? 巨匠……」
「知らぬ。仮に私が真実を述べようと虚偽を述べようと、貴様にそれを判断する術はないのだからな。何も変わらぬ」
 縋り付くようなキュリアベルに冷淡に言い放つ巨匠。既にキュリアベルは巨匠と相見える気力を完全に失っていた。巨匠は口元を僅かに吊り上げ、頽れているキュリアベルの顔を上げた。
「しかし、お前のその記憶を肯定できるかも知れぬ方法が一つだけある」
「そ……それは、何ですか!」
 途端に生気を取り戻した顔でキュリアベルは巨匠に縋り付いた。それが最後の希望と言わんばかりに。
「知れたこと。あれをこの世に呼び戻す事よ」
 巨匠の言葉にキュリアベルは落雷に打たれたかのように表情を変えた。震える手を巨匠から放し、再び地面にがっくりと項垂れた。
「で……でも、それは……」
「それは、何だ? もはやお前の記憶があてにならん以上、共通の記憶を持つあれに確かめる以外、術はあるまい?」
「でも……それではあの方を……」
 首を振りながらぶつぶつと呟くキュリアベルにトドメを刺すかのように巨匠は大きく息を吸った。
「裏切ることになるとでも言うのか? だがしかし、貴様の記憶など全く当てにならんと言うことは今はっきりと理解しただろうが」
「わ……私は館の中の物からも記憶を得ています! それを考えれば、あの方は復活など……」
 振り切るような言葉にも、覇気はない。
「同じ事だろう。その館の記憶とやらは信用できるのか?」
「え?」
「その館の記憶とは当てになるのかと聞いているのだ。私が操作したと考えることは出来んのか?」
「そ……それは……」
 巨匠の容赦のない言葉にキュリアベルは完全に反撃する力を失った。
「言っただろう。お前に残された唯一の道は、あれを蘇らせる事しかないのだと」
 巨匠はそれだけ言うとさっと踵を返した。
「……私は青玉の姫に会わねばならぬ。場所はあれが愛したあの花畑だ。己の心が決まったならば、そこに来るが良い。まぁ、結果は決まっているがな」
 巨匠は去り際にそう言い残すと、キュリアベルの視界から姿を消した。
 後に残されたキュリアベルはただ呆然として微動だにしなかった。

 館を囲む森から程なく離れた廃屋。青白い月光だけが頼りの薄暗い部屋の中心で、ラドゥラスクは荒い息を賢明に抑えていた。左手は必死に身体を支え、右手は己自身の動悸を止めようとするかの如く、強く胸に当てられていた。
「はぁ……はぁ……力が、足り……ない」
 キュリアベルの裏切りによって、その魔力の大半を奪われたラドゥラスクの身体は確実に力を失っていた。彼女の肉体自身は人間であるが、ラドゥラスクの魂を維持する為にはそれだけで莫大な魔力が必要となるのだ。今の彼女にはその魔力すら残っていなかった。このままではラドゥラスクの魂は再び肉体の奥深くに封印され、魔力の蘇る時まで眠りに付かなければならなくなる。既にラドゥラスクとして永く覚醒している彼女にとって、それは当代の死を意味する。
「あの……人形……め。よくも……この、私を……」
 罠に嵌めてくれたものだ。彼女も油断していたのだ。キュリアベルの裏切りを看破できなかったことは、同時に気を配って然るべき罠の感知すらも怠らせていた。しかも、その罠をキュリアベル自身が使用するとは全く以て予想外だった。
「……くぅ、力が、欲しい。もっと、もっと……」
 遂に身体を支えていた左手も力を無くし、ラドゥラスクは地面に突っ伏すように頽れた。既に魂の維持は限界だった。彼女が完全に行動不能になるのも時間の問題だった。しかし、それが進行すればする程、彼女の憎悪もまた増していった。美しい顔が憤怒に歪んでいく。
「殺してやる……あの人形も、あいつも、みんなみんな……」
 ラドゥラスクは呪詛を吐く。まるでその呪いの力を糧とするかのように、ただひたすらに相手を恨み続ける。
「……殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる……」
 誰も聞く者がいない中、彼女は自分の意識が続く限りそう呻き続けた。やがて月光がその身を隠すと同時に、彼女の姿も闇の中へと掻き消えた。

森の道は続き、アズレセアは歩く内に二股に分かれた箇所に出た。どちらへ向かおうかと思案していると、一方の道の先に見覚えのある人物が姿を現した。ドゥルクレンだった。彼は仮面を付けておらず、左眼は固く閉じられていた。
 満身創痍に見えるドゥルクレンを前にして、アズレセアは知らず身構えていた。そして脳裏には今まで彼が自分に対して行ってきた数々の非道が過ぎっていた。夢の中の彼と、現実の彼の姿が重なって複雑な心境に陥った。
 そんなアズレセアを見やりながら、ドゥルクレンは微かに笑ってその場に頽れた。既にその体力は限界に近いようだった。
 これまた意識することなく、アズレセアはドゥルクレンに駆け寄った。そしてそっと彼を抱き起こした。ドゥルクレンが驚いたように右目を見開いた。この場においても、左眼を開くことはない。
「……私を憎んではいないのですか?」
 ドゥルクレンの問いかけに、アズレセアは首をどちらにも振ることが出来なかった。
「……分かりません。ただ……」
 アズレセアは逡巡し、やがて吹っ切れたように優しく微笑し、ドゥルクレンを覗き込んだ。ドゥルクレンの右の瞳にアズレセアの姿が映っていた。「……あなたが本当に悪い人には思えません」
 その言葉にドゥルクレンは目を細めた。
「……似ていますね、あなたは」
 ぽつり、と呟いた言葉にアズレセアが目で尋ねた。それはどういうことですか、と。ドゥルクレンは彼女から視線を外し、目を伏せて微笑した。その表情は見ようによっては泣き笑いのようにも見えた。
「ふっ。昔の出来事ですが、私にそう言って下さった方がいましてね。今のあなたの目はその方にとてもよく似ていますよ」
 アズレセアは僅かに目を細めた。それは間違いなく巨匠の奥方のことだろう。長い長い微睡みの中で見たかつての館の記憶は、確実に彼女の心を変えているのだ。今まであれほど得体の知れない存在であり、自分の気持ちを践み躙ってきた眼前の男が、これほど懐かしく感じるのだから。
「……これは失礼。あなたには関係のないことでした。他人に故人の幻影を被せるのは失礼でしたね」
 ドゥルクレンは今度は自嘲気味に笑い、アズレセアの手を逃れるようにして立ち上がった。居住まいを正し、彼は正面からアズレセアに向かい合った。幾分高い位置から見下ろされ、アズレセアに少し緊張が走る。が、ドゥルクレンはそれ以上何をするでもなく、口調も穏やかだった。
「……これからどうなさるおつもりですか? 館の外に出て……森を抜け、帰られるおつもりですか?」
 ドゥルクレンの試すような問いに、アズレセアは無言で首を横に振り、一体の古ぼけた人形を取り出した。ドゥルクレンが再び目を見開いた。
「それは……奥方様の」
「私は……巨匠に会わなくてはなりません。会って、全ての決着を付けなくてはならないのです」
 今までに無いくらい、力強い口調で彼女は言った。ドゥルクレンは微動だにしなかった。表情も変えず、ただじっとアズレセアを凝視している。
「そこを通して下さい。私はどうしても彼に会わなければならないのです」もしもドゥルクレンが彼女の道を阻むというのなら、彼女は例え敵わぬと分かっていても立ち向かっていくだろう。ドゥルクレンがそう思える程、今の彼女の瞳には確かな力があった。そしてそれこそが自分の求めていたものであることを彼ははっきりと悟った。
 ドゥルクレンはその場に跪き、アズレセアに頭を垂れた。
「あの……?」
 突然の行動にアズレセアは面食らい、思わず手を伸ばした。ドゥルクレンはゆっくりと立ち上がり、懐から紅い宝玉を取り出した。血のように紅い宝玉は青白い月の光を受けて不気味に輝いている。
「それは?」
「大婆殿の形見です。そして、これは今後必ず必要となる物でしょう」
「形……見? 一体どういう事なのですか? 何が……起こったのですか?」
 一瞬強くなってしまった口調を改めるように、アズレセアは言葉を切りながらドゥルクレンを問い詰めた。ドゥルクレンは目を伏せ暫く沈黙を守っていたが、やがて観念したように口を開いた。
「全てをお話ししましょう」
 短く呟いた彼は、赤玉を仕舞い込むと今までの経緯を語った。巨匠の思い、復活したラドゥラスク、老婆の死。今まで彼が見てきた全ての話を終えると、アズレセアは当然の如く疑問をぶつけた。
「ラドゥ……ラスクですか? あのお伽噺に出てくる?」
 アズレセアの半信半疑な物言いに、ドゥルクレンは嘆息混じりに吐き捨てた。
「……今の我々にとっては現実の悪夢です」
 言うとドゥルクレンはタキシードの右袖を捲った。人間と瓜二つの肌が露出される。が、そこには酷く醜い傷跡があった。
「先程のラドゥラスクとの戦闘の際に負いましてね」
 ラドゥラスクは彼の敵う相手ではない。400年前ですら彼はラドゥラスクの足下にも及ばず、危うくその命を失いかけたのだ。そして現在のラドゥラスクは確実に400年前よりもその魔力を増している。
「戦闘用の名折れですよ、ふふふ。分かってはいたのですが、奥方様のこととなると自制が利かなくなるものでして」
 自分などドゥルクレンに掛かれば容易に殺されてしまうことを知っているアズレセアは、そのドゥルクレンですら歯が立たないラドゥラスクに言いようのない恐怖を覚えた。それと同時に、敵わないと分かっていても尊敬すべき人間の為に行動を起こすドゥルクレンを少し見直した。
「そのラドゥラスクは巨匠や私に復讐を誓い、今まさにこの館に向かっているところでしょう。もしかすると、もう館に着いてしまっているかも知れません」
「では、早くそのことを知らせなければ!」
 浮き足だって叫ぶアズレセアを片手で制し、ドゥルクレンは口の端を吊り上げた。
「ご心配は無用です。そのための手は打ってあります」
「手は……打ってあるとは?」
 ドゥルクレンは開かない左眼を指した。
「……青玉です」
 アズレセアが息を呑むのがはっきりと見て取れた。彼女の脳裏に青玉を埋め込まれたカール・ツァイスの偽物の姿が過ぎる。鎮まりつつあったドゥルクレンへの怒りがまた沸々と湧いてくるのを感じた。そしてそれをドゥルクレンも感じ取っていた。
「今更言い訳など致しません。私は、あなたに対して取り返しの付かないことをして参りました。ですが、今だけは落ち着いて話を聞いて頂きたい」
 ドゥルクレンの左眼がまっすぐにアズレセアを射抜く。月光を浴び、薄明るく輝くドゥルクレンの瞳には、真摯な雰囲気があった。アズレセアは一度大きく息を吐くと、こくりと頷いた。
「感謝します。……もうご存知かも知れませんが、青玉には所有者の記憶を蓄積する力、そしてそれを伝える力があるのです。私はそれを利用してカール・ツァィスの視点であなたの行動を見ていました。館の中で何があったのかは大体分かっているつもりです。そして青玉がキュリアベルの手に渡ったことで恐らく事情は向こうにも知れてるでしょう」
 初耳だった。あの青玉にそんな意味があるなど今まで知らなかった。すると青玉は400年もの間、ずっとドゥルクレンの記憶を見続けてきたのだろうか。
「更に青玉は膨大な量の魔力を蓄積できる、我々の生命の源でもあるのです」
 そこでアズレセアはようやく老婆の死に合点がいった。どうして赤玉を手放しただけで老婆が死を迎えたと彼が悟ったのか、今まで理解に苦しんでいたがそういう事情ならば当然の帰結だろう。
「我々は人形です。人間ではありません。人のように大気を吸い、物を食し、子を宿し、時の経過と共に生を終えることはありません。我々を動かしているものは魔力なのです」
 ドゥルクレンは赤玉をアズレセアに見せる。アズレセアの目にはそれは只の宝石にしか見えなかった。
「つまり青玉、赤玉とは我々を動かし、且つ我々の見聞を記憶しておける、言わば我々の魂のような物なのです」
 赤玉を懐に仕舞い、ドゥルクレンは左眼に手を当てた。そこには何もない。何故なら彼はカール・ツァイスの人形にその青玉を渡してしまったのだから。
 ふと、そこでアズレセアは疑問に行き着いた。では何故、それほど大切な青玉を手放してドゥルクレンは生きていられるのだろう。彼のこの疲労度はそれで説明できるかも知れないが、このままでは彼は死んでしまうのではないだろうか。
「……あなたは青玉を手放してしまいました。けれどこうして生きています。カールの人形に青玉を埋め込んだなら、私が初めて森を抜け出そうとした時に既に埋め込んでいたのなら、どうしてあなたは今まで無事だったのですか?」
 至極もっともな疑問にドゥルクレンはお見せしましょうとだけ呟き、タキシードの前をはだけた。色の薄い胸が露わになると、ドゥルクレンは何を思ったか自らの手をその胸に突き立てた。
「はっ!」
 アズレセアはあまりの凄惨さに一瞬目を覆った。だが、自らの胸を貫いたドゥルクレンから血が噴き出すことはなく、ただパラパラと乾いた陶器の破片のような物が落ちるのみであった。指と指の間からその光景を目の当たりにしたアズレセアは訳が分からず、ただ息を呑んだ。
「私と大婆殿は巨匠の生み出した最初期の作品です。当時の巨匠は我々の肉体に血肉を使うことはありませんでした。その証として我々には一滴の血も流れてはいないのです」
 ドゥルクレンは言いながら胸を引き裂き、その中に手を突っ込んだ。そして指が中程まで入り込んだところで捻るようにして手を引き抜いた。その手には、今まで彼の目に埋め込まれていたそれよりも遙かに美しい輝きを持つ青玉が握られていた。
「それは!」
 アズレセアが目を丸くした。ドゥルクレンは自分の胸から出した青玉を見やり、静かに力無く笑った。
「ふ、ふふ。私の、奥方様より賜ったこの青玉は私自らの手で私の中に眠らせていたのです。カール・ツァイスに渡した青玉……私の左眼に埋め込まれていた青玉は私が造り上げた贋作に過ぎません。本物は……常に私と共にあるのです」
 自己陶酔するかのようなドゥルクレンの口振りに、アズレセアが悲痛な叫びを漏らす。
「何故そのようなことを!」
 青玉を外したドゥルクレンの顔色はますます青くなり、その四肢からは力が抜けているようだが、彼の右目は爛々と輝いていた。
「何故? 何故、ですか……。幼稚な独占欲、なのかも知れませんね。これを……奥方様との、あの頃の思い出を誰にも渡したくなかった。ずっと私の胸の中に仕舞っておきたかった。だから私は自ら青玉を封印し、左眼には代わりの青玉を埋め込んだのです。まぁ、さすがに巨匠の目までは誤魔化せませんでしたがね」
 廃屋での一件を思い出す。巨匠は美しいが醜いと言った。それは当然だろう。あの青玉は人工の美は備えていても、人が生み出す心の美までは映し出すことが出来ないのだから。
「あなたは……それほどまでに奥様のことを……」
「単なる、エゴに過ぎませんよ。私は……出来ることなら、奥方様を独占したかった。只それだけです。一度でも、あの方の笑顔を私だけに向けて欲しかった……」
 ドゥルクレンは青玉を見つめると、意を決してそれを左眼に埋め込んだ。暫く押し込む動作を繰り返していたが、それはやがてピッタリと彼の左眼に収まった。途端に、ドゥルクレンの身体に何か奇妙な力が宿るのをアズレセアは感じた。
「……力が、戻ったのですか?」
「青玉は周囲の気を吸収して力を増すのです。私の身体から出され、外気に触れることでその本来の魔力を取り戻したのです」
 既にドゥルクレンの言葉に弱々しい部分など微塵もなかった。それどころか、前にも増して力強く感じる。これが本来のドゥルクレンなのだろうか。今までの彼はほとんど力のない状態でいたのだろうか。その疑問に彼は答えることはなく、左眼の青玉を指差した。
「私が造り上げた青玉は、私の持つ青玉と記憶を共有することが出来ます。私はこれを利用して、カール・ツァイスの目からあなたを見ていました。あなたはとても強くなった。あなたは私の放ったカール・ツァイスという贋作に守られることも、キュリアベルに従うことも拒否し、自らの足で、自らの力で巨匠と会うことを決めました。あなたのその精神の強さ、感服致しました」
 彼は一呼吸置き、
「正直な話、私はどの立場を取るか考えあぐねていた所でしたが……あなたが巨匠と対峙する覚悟を決めたというのならば、私も覚悟を決めねばなりません。この持てる全ての力を、あなたの為に使うことを誓いましょう、青玉の姫。……いいえ、もはやそのような呼び名は相応しくありませんね、アズレセア様」
 ドゥルクレンは優雅に礼をした。その姿はまるで主人を迎える騎士のようだった。アズレセアはそれを聞いて訝しがった。
「でも、あなたは巨匠の人形なのではないのですか? 私の行動が結果的に巨匠を裏切ることになるかも知れないのですよ?」
「私が巨匠の人形であることに相違はございません。我が目的は全て巨匠の御為。しかしながらアズレセア様。真の従者というものは、主の犯そうとしている過ちを正してこそでございます」
 ドゥルクレンは服装を正し、顔に白亜の仮面を付ける。仮面の奥の青玉が闇において一層輝きを増した。
「でもどうして私に協力して頂けるのです? あなたはこの私を……」
 言おうとしてアズレセアは口を噤んだ。事実ではあっても、本人を前にして鬼畜呼ばわりするのは気が引けた。ドゥルクレンはアズレセアの言葉の先を理解し、片膝を付いて跪いた。
「仰る通りです。私の一連の行動を鑑みれば、お疑いになるのは当然のこと。ですが、全てはあなたのお心を図る為の所行だったのです」
「どういう意味ですか?」
 意味が分からず、アズレセアはしゃがみ、ドゥルクレンに目線を合わせて尋ねた。
「巨匠の目的が奥方様の復活ということは既にご存知でしょう」
 アズレセアは無言で頷いた。
「しかし、その復活の儀式もただ行えば良いというものではありません。高貴な魂を常世より呼び戻し、新たな肉体を依り代として蘇らせる為には、その肉体の持ち主が心身共に強くあらねばならないのです。つまり、精神が高潔な者でなければ降臨の儀は正常に執り行われないのです」
 ドゥルクレンは視線を落とし、幾分トーンを落として話を続けた。
「私は館に招いた娘達に非道の行いをすることによって彼女達の精神の強さを図っていたのです。そしてもしも儀式に足りぬようであれば、私が非道の行いをすることによってその精神をより高次へと引き上げる……それがこの私のもう一つの役目です。しかし、この400年、この両方の条件を満たす者は現れませんでした。いずれも精神か肉体に異常を来し、そのまま息を引き取られました」
「では、あの館の墓は……」
「奥方様のものを除き、全て復活の儀式に耐えきれずにこの世を去った哀れな娘達です!あの墓だけではありません。別の場所に何十、何百という娘が同様に埋められているのです」
 ドゥルクレンは感情の高ぶりを押さえ込めず、知らず口調を荒らげ、地を強く打った。
「私は……巨匠の指示とは言え、罪のない娘達に今まで過酷な試練を課してきたのです。その結果、私は多くの娘達を死に至らしめてしまった……奥方様の遺言を何一つ守れていないのです」
 悔やむように、ドゥルクレンは呻いた。涙が流れない身と理解しながらも、顔を覆う。溢れ出る慚愧の念を鎮めることなど出来なかった。アズレセアはそっとドゥルクレンの肩に手を置き、静かに頭を振った。
「顔を上げて下さい」
「しかし、私は……私は罪深い。何の罪もない娘達を……我々の目的の為だけに利用し、結果死なせてしまいました。私は……私は……」
 ドゥルクレンは尚も自分を責め続ける。400年もの間続いた忌まわしく歪んだ彼の歴史が、ここに来て一気に暴発してしまったのだ。
「あなたは最後で自分の過ちを認め、こうして悔いているではないですか。奥方様も分かって下さるはずです」
 奥方様、の単語にドゥルクレンの方がびくりと跳ねた。わなわなと肩を震わせながら彼はアズレセアを見た。
「悔いて、自分を責めて、それで許される罪などありません。あなたの罪を贖う罰は、あなた自身が前に進むことでしか受けることが出来ないのです。立って下さい、己を責めるのならば、己を悔いるのならば、今こそ立ち上がりましょう。そして、この歪んでしまった哀しい因縁に幕を閉じましょう! 奥方様もそれを望んでいるはずです。あなたのことを本当に愛しているなら!」
 アズレセアの力ある呼びかけに、ドゥルクレンの震えが止まった。アズレセアを凝視し、彼は暫くの間硬直を続けた。やがて彼は静かに立ち上がった。どこか吹っ切れたような、覚悟を決めたような、生気を取り戻した者の動きだった。
「……あなたの言葉で目が覚めました、アズレセア様。確かに、私の罪は私自身の行動で以て以外、贖罪されるものではありません。行きましょう、アズレセア様。巨匠は……おそらくはこの先の花畑にいるでしょう」
「何故ですか?」
 ドゥルクレンは懐から一輪の薔薇を取り出す。見事に花開き、完璧なまでに美しいが、どこか作り物めいていて哀しげに見えた。
「そこは奥方様が愛した場所。そして巨匠にとっては復活の儀式を執り行う唯一の祭壇なのです」
「……行きましょう」
 アズレセアは毅然として言い放ち、花畑へと足を向けた。そんなアズレセアの前に立ち、ドゥルクレンは再び礼をした。
「アズレセア様、私はあなたの楯になりましょう。命に代えても、その身をお守り致します」
 ドゥルクレンの力強い申し出に、アズレセアは初めて彼に笑顔を見せた。が、彼女は頭を振った。
「その気持ちは嬉しいのですけど、命を捨てるなどと軽々しく言わないで下さい。あなたの命も、掛け替えのないものなのですから」
 その言葉に、ドゥルクレンはまるで電撃に撃たれたかのように動けなくなった。まるで、奥方様と対面しているかのような錯覚を受けたからだ。彼は沸き上がる感動を必死に仮面で隠し、花畑へと向かうアズレセアの後を追った。
「……あるいは本当に奥方様なのかも知れませんね、あなたは……」
 ドゥルクレンの呟きはアズレセアに聞こえることなく、漆黒の森の中へと吸い込まれていった。

 異常なまでの静寂。青白い月光に照らされ、夜でありながらその光を頼りに咲き続ける花達は、幻想的な雰囲気を醸し出していた。その中心で、まるでこの世界の主であるかように巨匠は佇んでいた。
 アズレセアはここで初めて巨匠に出会えたことで僅かに緊張の色を浮かべたが、それを振り払うかのように一歩前に踏み出した。傍らのドゥルクレンも覚悟を決めたようだったが、アズレセアに任せるように彼女の背後に控えて黙していた。
「巨匠……」
 嵐の前の静けさだろうか? あまりにも穏やかすぎるその巨匠の表情に、ドゥルクレンは訝しさと不安が入り交じった声音で呟いた。巨匠は知ってか知らずか、ドゥルクレンのつぶやきには何の反応も示さず、周囲の花に目を向けながら独語するように呟いた。
「……アズレセア殿。人が、人を創ろうとする動機は何だと思う?」
 巨匠の言葉がアズレセアに向けられたものであると悟ったアズレセアは、己の考えを確かめるように一拍置き、ゆっくりと答えた。
この問いは巨匠が永い時の中で常に自問し、また他人にもその答えを求めてきた問いだ。「……人を……人を愛して止まないからでしょうか……」
 アズレセアの答えを深く染み込ませるように巨匠は目を閉じた。それから軽く苦笑し、その答えに満足するかのように彼女に微笑みを見せた。もしもつまらない答えであったならば、彼は彼女を今までの娘達同様に切り捨てていたかも知れない。幸か不幸か、この答えは巨匠の満足するものであったらしい。
「……ドゥルクレンよ」
「……はっ!」
 不意に声を掛けられ、ドゥルクレンは一瞬の間を置いて慌てて礼を取った。巨匠はドゥルクレンを見ることなく言葉を続けた。
「……お前は、やはり私に相対するか」
「言い逃れは致しません。これも我が信ずる道の為……」
 ドゥルクレンはアズレセアを一瞥した。例え一時であっても巨匠を裏切ることになっても、彼は巨匠を止める道を選んだのだ。巨匠は目を伏せ、軽く笑った。
「ふっ、それも良かろう。好きにするが良い」
「……はっ」
 巨匠は特にドゥルクレンに対して怒りを見せるでもなく、失望するでもなく、以前から分かっていたような口振りであっさりと済ませた。
「……思えば、お前が一番あれに近かったのだからな」
 巨匠の独語はドゥルクレンの耳には聞こえたが、彼は敢えて何かを言うことはなかった。巨匠も何事もなかったかのように振る舞い、アズレセア達に一歩迫った。
「……400年、だ」
 ぽつりと、言った。
「……私は400年、待ち続けた」
 またも、ぽつりと。
「我が問いに意味ある答えを持つ人間が現れるのを400年、待った」
 巨匠は歓喜が声に現れるのを抑えきれず、震える声でまた呟いた。巨匠の機微に反応してか、周囲で淡い光を発していた花が、その輝きを僅かに増したような気がした。巨匠は天を仰ぎ、漆黒の闇に浮かび上がる唯一の光、青白く丸い月を見やった。
「ようやく、この時が来たのだ」
巨匠が狂気じみた光を伴った相貌をアズレセアに向けた。そこには長年待ち焦がれた者が現れた喜びとそれに対する強い執着心が見て取れた。そのあまりの迫力に気圧されたアズレセアは、知らず一歩後退った。背中に軽い衝撃を覚えて振り返ると、ドゥルクレンが背中を支えてくれているのが見えた。彼女は彼の目を見て、軽く頷いて再び前に出た。
「私の400年は無駄ではなかったのだ」
 巨匠は進み出たアズレセアを求めるように手を差し伸べた。
「さぁ、行こう。アズレセア殿……いや、青玉の姫よ」
 それが明らかに奥方を復活させることを示しているのがアズレセアには分かり、彼女は首を軽く横に振った。巨匠の表情は変わらず、未だに取り憑かれたような状態のままだ。「……出来ません」
「何故に?」
 巨匠の問いかけにアズレセアは臆することなく答えた。
「私はアズレセアです。あなたの奥方様になることはできません」
 巨匠は嗤う。
「それは当然だ。青玉の姫よ、あなた自身があれになることは決してあり得ない。だが、あなたがあれの代わりになることは出来る」
「私の命を犠牲にして、ですか?」
 アズレセアの言葉に巨匠は軽く頷く。
「我が反魂の術は言わば換魂。呼び戻す魂に相応しい魂でなければ、我が術は決して完成せぬ。青玉の姫よ、我が術の完成にはあなたの魂が必要不可欠なのだ。あれと似た輝きを持つその魂こそ、あれを常世の世界より呼び戻すことが出来るのだ」
 巨匠は手を差し出した。
「出来ません。私は誰の犠牲にもなるつもりはありません。それに、そうして得られた新しい命をあの方が喜んで受け入れるとは思いません」
 アズレセアの言葉に巨匠はつまらなそうに肩を竦めた。
「キュリアベルにでも吹き込まれたか? あれについて何一つ知らぬあなたがそれを語るべきではない」
巨匠の氷のように冷淡な言葉がアズレセアに突き刺さる。が、アズレセアは怯むことはなかった。
「確かに私はあの方と直接お会いしたことはありません。あの方について何も知らないといわれればそうかも知れません。でも、私は確かに微睡みの中であの方の想いを聞いたのです」
 アズレセアは仕舞っていた手紙と人形を取り出した。それまで興味ないようにアズレセアの話を聞いていた巨匠の眉が僅かに上がった。
「これは……奥方様があなたに対して送った手紙です。恐らくは……病に冒されたあの方が今際の際で認めたものだと思います」
 巨匠の視線がアズレセアの手紙に集中する。彼は眉を動かす以外、何の行動も起こさず、只それをじっと睨んでいる。
「…これを、読んで下さい。そして、あの方の偽らざる気持ちを受け止めてあげて下さい」
 アズレセアは一歩踏み出す。背後に控えているドゥルクレンをちらりと見やると、彼は大きく頷いた。アズレセアも頷き返し、また一歩踏み出した。
 巨匠は手を伸ばせば届く距離にまで迫ったアズレセアを正対して見つめた。巨匠の鋭い眼光に射抜かれ、アズレセアが緊張しているのが分かる。が、それでも彼女は手紙を差し出した。巨匠は案外素速い動きで手紙を改めた。巨匠は一行一行かみしめるようにそれを読む。やがて手紙は終わった。
 じっと目を通し、読み終えた巨匠は手紙を握り締め、沈痛な面持ちで天を仰いでいた。漆黒の闇は彼にどんな言葉も届けてはくれず、彼の心をひたすら貪るようにただ天にあった。
 アズレセアはただ沈黙を以て巨匠を見守った。奥方様の最期の言葉を巨匠なら受け止めてくれるはずだ。
「いつか、我が寝所が棺に変わろうとも、我が思い寄る辺はかわらじ……か」
 巨匠は虚空に向かって嘆息した。その目はどこか虚ろで遠い。
「その言葉は……!」
 寝台に残された文字だ。巨匠もそれには気付いていたのだ。アズレセアは急に巨匠の心が穏やかになりつつあるのを感じた。背後のドゥルクレンはシルクハットを目深に被って別の方向を見ていた。
「ふっ、確かに私は間違っているのかも知れぬな……」
 ぽつりと、巨匠が漏らした。アズレセアはその言葉に心臓が跳ねた。
「巨匠……」
「分かっていたことだ。あれは決して他人の犠牲を望みはすまい。そういう女だ」
 巨匠は手紙を懐に収め、アズレセアを真正面に見据えた。その瞳には確固たる意思が込められていた。それは先程までのアズレセアと同様のものであった。
「だが……だからこそ私はやらねばならぬ!」
 巨匠の身体から圧倒的な威圧感が漂ってくるのを感じる。
「巨匠! 奥方様の言葉が届かないのですか!」
 アズレセアの悲痛な叫びにも巨匠は動じない。
「届いたわ。あれの言葉は他人の百万言よりも意味がある。だが、それとこれとは話が別よ!」
 巨匠はアズレセアを捕まえようと手を伸ばす。それを弾いて躍り出たのがドゥルクレンだった。ドゥルクレンは組み伏せるようにして巨匠に逆に掴みかかった。
「ドゥルクレン! 離せ!」
「もうお止め下さい、巨匠! 例え……例え奥方様がこの世に戻られても、あの方が涙に暮れては何の意味もないではないですか!」
「利いた風な口を!」
 瞬間、ドゥルクレンの身体が電撃に打たれたようにびくんと跳ねた。不意の衝撃にドゥルクレンが片膝を付く。しかし、それでも巨匠から離れてはいない。
「お前に私の気持ちの何が分かる! あれの何が分かる!」
 巨匠は遂に激昂したように立て続けにドゥルクレンに魔術を浴びせかける。が、ドゥルクレンはそれでも巨匠を放すことはなく、賢明に説得を続けた。
「巨匠……お考え直しを!」
「貴様は私の400年を否定するつもりか! 私に死ねというのか!」
 ドゥルクレンは巨匠の絶叫を聞きながら、己の浅はかさを呪った。今の巨匠には奥方様しかなく、それを否定すると言うことは巨匠の生命さえも否定することに繋がる。だが、今のドゥルクレンにはその方法しか残されていないのだ。
「貴様に我が心の渇きを理解できるか! 我が苦悩を一片でも理解できるというのか!」
 巨匠が大きく腕を振り上げた。渾身の魔術がドゥルクレンに叩きつけられようとしていた。
「そんな白々しい台詞がよくもまぁ出るものね」

 時間は再び遡る。薄暗い館の一室、キュリアベルはその中心に頽れていた。頭の中では未だにどうしようもない衝動が駆けめぐっていた。身体は知らず小刻みに震え、口は意味もなくぱくぱくと忙しなく動いた。視線は一点を注視したまま、動こうとしないが、その場所を凝視しているわけではないのは明白だった。
「……私は、あの方に、会いたい……」
 さっきから同じ事の繰り返しだ。胸中の奥方を求める気持ちに歯止めが利かない。例えそれが巨匠の魔術によって強引に引き出されたものであったとしても、その気持ちは本物だ。今まで心の奥底に隠して素知らぬふりをしてきた感情だ。偽りではない感情を抑えることなど出来ない。
「……私は、あの方に、会いたい……」
 惚けたように、彼女はその言葉を繰り返す。既に思い出すことの出来ないその表情。優しく、穏やかなはずだった。だが、それがどうしても思い出せない。霧が掛かったように、逆行に遮られるようにぽっかりと抜け落ちている。
 それすらも巨匠の魔術の影響なのか、彼女には分からない。だが、そんなことは今のキュリアベルにとってはどうでも良かった。問題なのは、奥方に会いたいという気持ちだけなのだから。
 彼女は自分の衝動を抑えようとするかのように、ただ小刻みに体を震わせていた。寒くもないのに自身を掻き抱き、焦点の定まらない相貌は時空を超えてあの日の光景を見ている。それが鮮明になればなるほど、彼女の中で奥方の顔は遠く記憶の闇に埋没することになる。
 彼女の心は既に決まっていた。アズレセアの精神が巨匠に負けたら、奥方を生き返らせよう、と。あれほど頑なだったキュリアベルの心は、今やきっかけがあればすぐにも奥方を呼び出しそうな程、追いつめられていた。
 しかし、しかしだ。僅かに残った冷静な部位が告げる。あのアズレセアが、今の彼女が巨匠にそう簡単に屈するだろうか。彼女の瞳には未だかつてない程の力があった。自ら巨匠に会いたいという程に彼女は自分のすべき事に対して信念を持っているはずだ。そんな彼女がそう簡単に負けるものだろうか。
 恐らく負けるだろう。自分も絶対に負けるものかと思っていたが、今ではすっかり巨匠の術中に嵌っている。そうした方面に強いはずの自分ですらこの有様だ。只の人間であるアズレセアに耐えられるはずがない。
 あぁ、でもそれでいいのかも知れない。アズレセアさえ同意すれば、何者も奥方の復活を妨げる者はいなくなるのだから。後は自身の中に残るラドゥラスクの魔術を行使すればいいだけなのだ。
 そうすればあの方に会える。キュリアベルがずっと深層意識の片隅に追いやっていた本当の気持ちが待ちきれないようにそれを求めて荒れ狂う。キュリアベルは頭に手を当てて膝を突いて蹲った。
 早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く――
 そうしてどれだけの時間が過ぎ去っただろうか。ふっと彼女の視界の端に、黒い何かが映った。特に今の彼女には何の感慨も与えなかったが、キュリアベルは反射的にその黒い何かを視界の中心に置いた。
 それは何かと言うと難しく、まるで水溜まりのような闇だった。黒い靄のようなものが溢れているようにも見えるし、見ようによってはそこだけ景色がぽっかり切り取られたようにも見える。
 普段のキュリアベルであったらば、もっと油断なくその闇を見ていたかも知れない。だが、残念ながら今の彼女はそんなことに注意を払う程の余裕がなかった。結果、彼女は次の状況に際してその行動を致命的に遅らせることになった。
「……どうしたの、黙り込んで?」
 心底侮蔑しきった声が闇から漏れたかと思うと、凄まじい速さでその闇は広がり、逃げる間もなくキュリアベルの下半身を飲み込んだ。既にその半身が闇に呑まれてから、ようやく正気を取り戻したキュリアベルは慌てて抜け出そうするが、埋没した下半身はぴくりとも動かなかった。
「無駄よ。……今度のは失敗しないようにかなり神経を使った術だから」
 キュリアベルのすぐ眼前、腹の前辺りの闇が盛り上がり、それはやがて人の形を取り始めた。闇は先程魔力の大半を奪い取ったはずのラドゥラスクを形作った。狂気を孕んだ、面白がるような嗜虐に満ちた視線がキュリアベルに絡み付く。
「……ラドゥラスク」
 キュリアベルは表情を変えずに呻いた。それが機微に乏しい少女の精一杯の感情の揺らぎだと知ったラドゥラスクは、更に蔑むように目を細めた。
「休んでるとこ悪いんだけど、そんな暇はないのよ?」
 ラドゥラスクの唇が邪悪に歪み、その腕はキュリアベルを捉えようと伸びる。キュリアベルはそれを払い除けるかのように腕を振った。威嚇されたラドゥラスクは腕を引っ込め、軽く肩を竦めた。
「あらあら、随分な嫌われようね。まぁ、別にいいけど……」
「これ以上、何の用ですか?」
 キュリアベルは油断なく周囲を見回しながら尋ねた。彼女の視線の先には先程ラドゥラスクから魔力を奪った、館に施された術に向けられていた。あれはまだ生きている。どうやって短時間で魔力を補給したのかは分からないが、あれが動けばもう一度ラドゥラスクを無力化できる。
「それを聞く? 端的に言うと、私から奪った色々なものを返して貰いたくて来たのよ」
「……残念ですが、お返しできません」
 キュリアベルの言葉と同時に、館に施された魔力吸収の術が発動する。周囲を取り巻く邪悪な魔力がどんどん薄れていくのを感じた。
 が、しかし――
「あんた馬鹿ね」
 すぐに異変は起きた。ラドゥラスクの魔力が減ったのはほんの一瞬で、それから先は寧ろ館の魔力が逆にラドゥラスクに流れ込んでいる。目に見えて眼前のラドゥラスクが強大化していくのが分かった。慌てて術を解くが、既にラドゥラスクは館の魔力を吸収し終えていたらしい。
「これは……まさか!」
「同じ術に二度も掛かるわけないでしょ? この程度の術、一度見ればこっちに有利に働くように細工ををするのは簡単よ」
 可笑しそうにラドゥラスクは説明し、キュリアベルの耳元に顔を近付けて悪戯っぽく囁いた。艶っぽい声音で皮肉を投げかける。
「……やっぱり駄目ね、人形は。折角の知識も全然役に立たないわ。応用ってものを知らないのかしらね?」
 馬鹿にしきったラドゥラスクの言葉を聞き流しながら、キュリアベルは両腕に力を込めた。腕の修理も終わっている、今この場を脱する為にもう一度リミッターを外しても問題はないはずだ。館の術が利かないのならば、物理的に粉砕するしかない。キュリアベルはカール・ツァイスをも葬った拳撃を繰り出した。
 凄まじい速さで繰り出される無数の拳は、いずれもが例外なくラドゥラスクの身体に叩き込まれる。カール・ツァイスに比べて幾分柔らかいラドゥラスクの急所を何度も何度も殴りつける。
 その間、ラドゥラスクは全く何も出来ずにされるがままだった。キュリアベルの動きに付いていけないのか、彼女はだらしなく両腕を広げたまま、彼女に好き放題に打たれていた。
 やがて十数秒の経過と共にリミッター解除の時間が終わり、キュリアベルはボロボロになった拳を遂に振るうのを止めた。限界寸前まで酷使された肉体はドシャリと嫌な音を立てて闇に沈んだ。
 一方、キュリアベルの猛攻を喰らったラドゥラスクは大きく仰け反った状態で動きを止めていた。その四肢は打撃の衝撃によってグシャグシャに折れ曲がっており、既に原形をとどめていない。しかし、彼女の足下が闇によって固定されているのか、そのまま仰向けに倒れる様子はない。
「……確実に人体の急所を破壊しました。もう救いようはありません」
 自身の分身であるラドゥラスクを殺したのは、決して彼女が望む結果でなかった為、キュリアベルは寂しそうに呟いた。そんなキュリアベルは何とかして闇を脱出しようと、軽く藻掻いたがどうしても抜け出せない。ラドゥラスクも倒したはずなのに、しつこい魔術だと思っていると――
「ふふ……」
 初めて、キュリアベルの目が驚愕に見開かれた。見れば眼前のラドゥラスクの身体が小刻みに震えている。それは決して死の痙攣などではなく、ラドゥラスクの笑いから来るものであった。
「ふふふ……ふふふふふ。いいわ、いいわよ。あんたの考えがよく分かったわ……」
 身体を揺らし、腹の底から絞り出すように笑うラドゥラスクは、心底嬉しそうな表情と共に上体を元に戻した。驚いたことにその身体には全く傷ついた様子はない。
「……そんな」
 キュリアベルの呻き声を聞きつけた彼女は尚可笑しそうに、
「あらぁ、意外だった? 実は私も意外なのよ。あんたって、顔に似合わず乱暴なことするのねぇ? 私、少し驚いちゃったわ。でもあたしって女優なのよ? 顔は勘弁してちょうだいよ」
 全く無傷の顔を晒し、けたけた笑いながらラドゥラスクは変に折れ曲がっている関節を回し、バキバキと不吉な音を立てながら元に戻した。その動きは既に人間のものではなかった。
「……人形ならまだしも、どうして人間の身体で死なないのですか?」
「人間ならまだしも、人形の分際で本気で私を殺せると考えてたの?」
 馬鹿にしたように、キュリアベルの質問を似たような質問で返すラドゥラスク。キュリアベルはそれには答えず、きっとラドゥラスクを睨み付けた。
「あらあらぁ、怖いわねぇ。そんなに怖いと私、本気になっちゃうかも知れないわ、こんな風にね!」
 ラドゥラスクがキュリアベルに負けないほど素速い動きで腕を突き出した。その腕はまっすぐにキュリアベルの心臓部分に突き刺さる。キュリアベルが衝撃に身体をくの字に曲げた。
「ごめんなさい、痛かったかしら? まぁ人形だから別にいいわよね。それより、この辺かしら? 私があんたに貸してた物って」
 金庫のダイヤルを回す時のように、視線をわざとらしくぐるりと回しながらラドゥラスクは腕を捻った。キュリアベルがそれを止めようとラドゥラスクの腕を掴む。が、キュリアベルの足下の闇から無数の腕が伸び、キュリアベルの腕を逆に掴んで締め上げた。
「これは……!」
 胸を貫かれた為に掠れた声を出すキュリアベル。そんなキュリアベルを嗜虐の炎が宿った瞳で見つめるラドゥラスク。
「良いわねぇ、その声。何だかあんたが可愛く見えてくるわぁ。あんまり可愛いから特別に教えてあげる。この腕は、こいつらは私の忠実な下僕。誰かさんと違って決して裏切ったりしない、ね!」
 ボギョッ! 不自然な音が鳴り、同時にキュリアベルの胸から大量の血が噴き出した。ラドゥラスクは骨を砕いた感触に背中を突き抜けるようなゾクゾクとした快感を覚えた。キュリアベルの口が開かれ、ぱくぱくと何かが告げられたが、それを聞き取れた者はいない。
「さて……あ、あったあった。返して貰うわよ、あんたの魔力、それに私の欠片。ふふっ」
 悪戯っぽく笑い、ラドゥラスクは腕を引き抜いた。キュリアベルの鮮血に濡れるその手には白と黒の混ざり合った宝玉が握られていた。が、それはまだ辛うじてキュリアベルの身体と管のような物で繋がっていた。
 キュリアベルが最後の力を振り絞って腕を振り払い、ラドゥラスクの手から宝玉をもぎ取ろうと手を伸ばした。ラドゥラスクはそれを鬱陶しそうに払い除ける。
「うっさいわねぇ。元々これは私の物なんだから、私が貰っておいて当然でしょ」
 キュリアベルは口から溢れる血にも構わず、首を賢明に振った。その宝玉にはラドゥラスクとしての記憶だけでなく、奥方との記憶も内包されているのだ。それは決して他人に渡してはいけないもの。キュリアベルは必死に取り返そうと手を伸ばす。しかし元より、ボロボロになっている手ではラドゥラスクから宝玉を取り戻すことも叶わない。
 暫くキュリアベルは必死に腕を動かしていたが、それがラドゥラスクの苛立ちを募らせ、結果として彼女の空いている手でトドメを刺させることとなった。
「あぁ! 鬱陶しい!」
 バギャン! 再び何かが砕ける音がして、ラドゥラスクの腕がキュリアベルの首元から袈裟状に食い込んだ。右腕が千切れ、闇の中にどぼんと沈み込んだ。キュリアベルはそれでも宝玉を奪われてなるものかと、最後の切り札である青玉を取り出した。そしてその強大な魔力を解放しようとしたが……。
「そんなガラクタで一体どうしようっての?」
 無慈悲に言い放ったラドゥラスクの瞳が不気味に輝いた。瞬間、青玉はキュリアベルの手の中で微振動を起こし、そのまま砕け散って雲散霧消した。キュリアベルの目に絶望が浮かぶ。追い打ちを掛けるようにラドゥラスク。
「……偽物持たされるなんてあんたも災難ねぇ。ま、気付かずにいる方が馬鹿なんだけど」 
 最後に思い切り小馬鹿にしたように吐き捨て、ラドゥラスクはキュリアベルの身体から宝玉をもぎ取り、それを自身の胸の中に埋め込んだ。力の供給が絶たれ、キュリアベルの身体が痙攣を起こす。それを見るわけでもなく、ラドゥラスクは無造作に腕を振るった。
「じゃあね、裏切り者の木偶人形。あんたの力は私が有効に使ってあげるわ」
 軽い音を立て、美しい軌跡を描いて飛ぶキュリアベルの首を軽く一瞥してラドゥラスクは別れの言葉を吐いた。

「そんな白々しい台詞がよくもまぁ出るものね」
 地面に倒れ込んだのはドゥルクレンでもアズレセアでもなく、巨匠の方であった。しかもそれはドゥルクレンによるものではない。巨匠の脇から伸びた、どす黒い一本の腕によるものだった。
「巨匠!」
 吹き飛んだ巨匠に駆け寄るドゥルクレンだがそれは地面から生える無数の腕によって塞がれた。ドゥルクレンが反射的に背後を向いた。そこには闇を纏ったような女が立っていた。
「ラドゥラスク!」
「……見てられないわねぇ。あんまり退屈だったんでついつい出てきちゃったわよ」
 皮肉げに口元を吊り上げたラドゥラスクは、突然の出来事に動けずにいたアズレセアに近付いた。アズレセアが気付いて動こうとした時には、彼女の足は腕に掴まれて動くことが出来なかった。
「ラドゥラスク……今更何しに来た……?」
 巨匠が起き上がる。その瞳は酷く冷たい。
「そんな怖い顔しないでよ。協力しに来たんだから」
 ラドゥラスクは形の良い歯を見せて笑った。
「協力……だと?」
「そうよ。私の術であんたの奥さん、呼び戻してやろうってのよ」
 ラドゥラスクは胸元に手を突き入れ、その中から白い宝玉を取り出した。巨匠とドゥルクレンが驚愕のあまり目を見開いた。
「そ。キュリアベル……だっけ? あの小娘、ちょっとお仕置きしてやったわ。まぁ、やりすぎてもう動けないけどね、ふふふふふ」
 キュリアベルが破壊された事を知って驚くドゥルクレンだったが、横に立つ巨匠はそれ以上の衝撃を受けたようだ。目を見開いたまま、全身を細かく震わせている。
「あんた……こいつと――ラドゥラスクと契約してたのよねぇ? 良いわよ、私が引き継いであげる。どうせ私の復讐はその時に終わるんだから」
 邪悪に吊り上げた唇を軽く嘗めながらラドゥラスク。ドゥルクレンが身構えて叫ぶ。
「奥方様を復活させておいて、巨匠や奥方様を再び手に掛けるとでもいうのか!」
 ドゥルクレンの指摘にラドゥラスクはからからと乾いた笑いを立てた。その目は狂気じみていたが、彼女の口から発せられたことは違った。
「……それもあるわねぇ。でもね、一つ良いことを教えてあげるわ。死は一瞬の苦痛でしかないのよ。私が……数十世代を経て為し得る復讐はそんな簡単な話じゃないわ」
「……何だと言うのだ」
 弱々しい口調で巨匠が呻く。彼にはラドゥラスクの思惑が理解できているのだろうか。
「あら、白々しいわね。分かってるんでしょ? あんたを最も苦しめる方法。それは……」
 ラドゥラスクは眼前のアズレセアを指差した。
「――あんたの大事な奥さんを生き返らせること」
「はっ?」
 アズレセアとドゥルクレンは一瞬何を言われたのか分からず呆然としていた。そして我に返った途端、ドゥルクレンは激昂した。
「何を馬鹿なことを! 巨匠は今までその為に400年を生きてきたはずだ!」
「そ……そうです! 第一、巨匠の目的を達することが復讐だなんて……やはりその後に、殺すのですか?」
 ラドゥラスクは軽く肩を竦めた。そして、見る者全てをぞっとさせるような凍り付いた暗い瞳を二人に交互に向けた。
「……全然分かってないのねぇ、あんた達。私には分かるわ。私も、こいつも、絶望の淵を歩んできた者……こいつの葛藤は痛い程分かるわ」
 ラドゥラスクはアズレセアから離れると巨匠の元へと向かった。ドゥルクレンが庇おうと前に歩み出たが、ドゥルクレンは足下の無数の腕に掴まれて地べたに這い蹲った。
「ちょっと黙ってなさい、人形。……ヒュアルス、あんたは確かに奥さんを生き返らせたい……それこそ400年間生にしがみつく程にね。でも、その一方でどうしようもない程奥さんを憎んでたんでしょう?」
 耳打ちされた言葉に巨匠が大きく反応した。
「どういう意味なのですか?」
 状況が飲み込めず、アズレセアは我知らず叫んでいた。ラドゥラスクは余裕たっぷりの笑みで振り返った。美しければ美しい程、その笑みは残酷で恐ろしい。
「昔話をしてあげるわ」
 ラドゥラスクは巨匠を一瞥し、語り出した。

 昔々、ある所に優秀な魔術師がいました。
 その魔術師は国の為に一生懸命働きました。
 ところが、別のとある魔法使いが邪な術を駆使して国を恐怖に陥れたのでした。
 王様は何人もの騎士を遣わしますが、誰一人帰ってくる者はありませんでした。
 国中が絶望の色に染められた頃、一人の魔術師が立ち上がりました。
 それは国の為に働いた魔術師でした。
 魔術師は魔法使いの元へ行き、悪い魔法使いをやっつけました。
 国へ戻った魔術師は、当然みんなが喜んでくれるだろうと考えていました。
 しかし、国へ戻った魔術を待っていたのは辛い日々でした。
 国の者は皆、魔術師を恐れました。
 城の者や王様は魔術師に辛くあたりました。
 それどころか、今度は彼が国を恐怖に陥れるのではないかと疑い始めたのです。
 彼はたった一人、孤立したまま毎日を過ごしました。
 そうした日々は彼を確実に歪めていきました。
 周囲が彼を拒むように、彼も周囲を拒むようになりました。
 皮肉にも、自分がかつて倒した魔術師と同じように、人間は醜い生き物だと考えるようになりました。
 そんな時でした。
 彼は一人の女性と出会います。
 彼女はその美しい心で彼の心の暗い部分を包み込んでくれました。
 しばらくして、魔術師は彼女を心の底から愛するようになりました。
 
 ラドゥラスクはここまで一息に話すと、一旦言葉を切った。
「……とまぁ、ここまでは良くある美しい話よ。問題はここからよ」
 ラドゥラスクは巨匠を一瞥した。
「美しすぎたのよ」
 吐き捨てるように一言。
「あんまりにも奥さんの心が美しすぎて、こいつの心には眩しすぎたのよ。分かる?
 徹底的に人間の闇の部分を見せられ続けてきたこいつにとって、それがどれほど苦しいことか。強烈な光のある所に闇が生まれるのと同時に、こいつの心は奥さんに対する羨望とそれを受けての圧倒的な劣等感、敗北感に支配されたのよ。永遠に届かない光に手を伸ばし藻掻くように、こいつは自分が失ってしまったものを持ち続けていられる妻に嫉妬したのよ。挙げ句に自分の心の基準がとことん曖昧になっちゃったってわけ」
 ラドゥラスクは更に続けた。
「こいつにとって奥さんってのは、心の拠り所であると同時に、耐え難い程の矛盾の露呈であったのよ。長年のその狭間での葛藤でこいつの精神はすっかり摩耗していたはずよ」
 言い終えてラドゥラスクは両手を広げた。
「だから私は復活させてあげると言っているのよ! 果たしてそんな状態で、蘇った自分の妻を本気で抱けるのか、考えただけでも面白いもの!」
 ラドゥラスクはいやらしくケタケタと笑うと、アズレセアに目を向けた。まだ彼女は足を掴まれていて動けない。キュリアベルを吸収したことで力を増した今のラドゥラスクに掛かれば、反魂の術など取るに足らない。自らもそれを応用した術で生きながらえる身となっているのだから。
「……ラドゥラスクよ」
 それまで完全に沈黙していた巨匠が不意にラドゥラスクの名を呼んだ。ラドゥラスクは余り興味なさそうに軽く息を付いた。
「何よ」
「何故……何故にそれほど私の心を語る?」
「……同じだから、かしらね。まぁ、キュリアベルの記憶も私にはあるし。しかしあんたも難儀ねぇ、愛しながらも憎む。いや、愛しているから憎まねばならない。蘇らせることを誰よりも渇望し、誰よりも彼女をこの腕でもう一度抱きたいと願いながらも、本当はそれを抹殺したくて仕方がない……完璧に歪んでるわね、あんた」
 ラドゥラスクは言いながらアズレセアに手を掛ける。
「どうする? あんたが首を楯に振れば、すぐに済むわよ」
 巨匠は全く動かない。ラドゥラスクは苛々したように言った。
「苛々してくるのよね、あんた。あんたはこの400年、そうして無為に過ごしてきた。今までにも蘇らせるチャンスは幾らでもあったのに。十年前だってそうよ。あんたその気になれば、あたし程じゃないけど反魂の儀式くらい出来るんでしょう? それを勿体付けて、万全を期すとか何とか理由付けて先延ばしにして……いい加減に覚悟決めたらどうなの?」
 ラドゥラスクの剣のような言葉が次々と巨匠に突き刺さる。巨匠は沈痛な面持ちを崩さぬまま、ただじっとラドゥラスクの言葉を受け止めていた。
「400年前だってそう。妻の死に際に顔も見せないで、あたしの切れっ端と契約なんかして。あんた本当は怖かったんでしょ? 妻の死を心のどこかで喜んでしまう自分が怖かったんでしょ? そしてあんたは自分に猶予を与えた。それがラドゥラスクとの契約。どうなのよ、答えてご覧なさい」
 ラドゥラスクの言葉に巨匠は力無く笑った。自嘲気味のようにも見えるし、虚ろな笑いにも見えた。
「……そうだ」
 巨匠が肯定した。アズレセアも、地面に倒れるドゥルクレンも驚愕に身を強張らせた。
「……私は、あれが恐ろしかった。いや、正確にはあれと一緒にいる自分自身が恐ろしかった。あれの傍にいる時、私は幸福の直中に存在している。しかし、ふとした弾みで思うのだ。もしかしたら私は、自らの手で殺してしまうかも知れない、と」
「……ようやく本音を吐き始めたわね。回りくどい手を使わなきゃ、あんたは決して本音を吐かない。もう一つ言っておくわ、あんたが気付いているかどうかは別だけど、あんたは間違いなく復活を止めてほしいと思ってるのよ」
 急にラドゥラスクの表情が穏やかになった。まるで今までの態度が紛い物であったと言わんばかりに。
「……何だと?」
 ラドゥラスクの言葉に巨匠の視線が鋭くなった。
「あんたは相応しい魂だ、何だって勿体付けた理由を付けて、今まであんたに対抗するだけの意志を持った娘が現れるのを待ってただけなんじゃないの? 姑息なあんたの話術に惑わされない、本当に自分に立ち向かって来られる者を探していた。そしてそいつに自分を止めてほしかった……違う?」
「……何故そのような面倒なことをする必要がある?」
 巨匠の反撃は弱い。
「400年という長い時間とあんたの中の昇華しきれない葛藤が、あんたから事を止めさせるだけの力を奪っていたからよ。あの日、私と契約したあの日から、あんたはもう戻れない場所に立っていたのよ」
 言われて巨匠は笑う。まるでこの世の全てが可笑しいとでも言うように、彼は天高く高笑した。
「お前は……それすらも読み切った上で私に協力すると……今まさに、復讐は成就するという訳か!」
「過大評価のしすぎよ。キュリアベルを取り込んでいない中途半端な私じゃ、ここまでの結論には行き着かないわよ。自分自身を取り戻し、ようやく私はここまで来たんだから」
 ラドゥラスクは両手をさっと横に振った。すると今までアズレセアとドゥルクレンを拘束していた無数の腕は闇の泉へと沈んでいった。訝しがりながらもドゥルクレンは立ち上がる。
「……どういうつもりだ、ラドゥラスク」
「……ねぇ、ヒュアルス。何故私達はこんな所にいるのかしらね?」
 ラドゥラスクは突然話を変えた。ドゥルクレンにもアズレセアにも構うことなく、彼女は虚空を見つめた。
「……あんたはいつ叶うとも知れない願いの為に400年……私は初代の遺した一瞬の憎悪の為に幾星霜……何だか馬鹿みたいね」
「ラドゥラスク……」
「キュリアベルと融合し、私の中の記憶が完全に蘇ったわ。どうやら初代ラドゥラスクは復讐の邪魔になるような記憶と人格をキュリアベルに分化させることによって、この私を絶え間ない憎悪に駆り立てていたようね」
 それは巧妙に仕組まれた罠だった。巨匠がやって来ることを知った初代ラドゥラスクは、恐らく自分が敗れることも分かっていた。その為、それより前に自分の記憶を都合良く分化し、その上で転生の呪を掛けたのだ。そして不完全なラドゥラスクは凄まじい憤怒だけを持つ魔女と化したのだ。
「……余計なことばかり思い出してね。昔のちょっとしたこととか、変な思い出とか……そうしたら、復讐なんてどうでも良くなってきたのよ。不思議ね……今では自分を遺した初代ラドゥラスクの方が憎らしいわ」
 ラドゥラスクは初めて皮肉げでない笑みを浮かべた。それは本来のラドゥラスクが持つ優しい笑みだった。が、すぐにそれは消え、強い力を持つ瞳が顔を覗かせる。
「そう、復讐なんてどうでもいい。でもね、私はあんたを殺すことに決めたわ。どのみちあんたの身体は私の蒔いた死病でボロボロ、今まで生きていたのが不思議なくらいよ。これ以上苦しみながら逝くよりは、今ここで引導を渡すわ。もういい加減、こんな下らない茶番は終わりにしましょう!」
 ラドゥラスクの周囲の闇が集まり始める。大量の闇を吸収したラドゥラスクはかつて無い程の威圧感を漂わせた。黒い霧のようなものが全身から立ち上っている。
「それが、かつて同志であり、共に同じ道を目指した私達の、せめてものけじめの付け方ってものよ!」
 言うが早いか、ラドゥラスクは闇の泉に流されるように素速い動きで巨匠に迫った。
「巨匠!」
「来るな、ドゥルクレン!」
 巨匠は一喝し、自らも腕を上げた。二人の姿が重なった瞬間、閃光が迸った。魔術のぶつかり合いの余波か、飛び散った魔力がアズレセアやドゥルクレンに襲いかかる。ドゥルクレンは咄嗟に身を挺してアズレセアを庇った。
 背中に焼け付くような痛みを感じながらも、ドゥルクレンは振り返って巨匠とラドゥラスクの戦いを見た。
 それはまさに二人の神の戦いだった。圧倒的な量の闇を楯と化し、剣と化し、槍と化して襲いかかるラドゥラスク。その一撃一撃が巨匠の命を奪って十分に余りあるものだ。魔力の余波は大部分がラドゥラスクから発せられている。一方の巨匠はそうしたラドゥラスクの凄まじい魔力をどうにか凌いでいる。自らの魔力を直接ラドゥラスクにぶつけることで彼女の魔術を相殺しているのだ。
 それは既にドゥルクレンなどが立ち入れる状況ではなく、彼は固唾を呑んで見守るしかない。アズレセアは直接それを見ることは出来ないが、どれだけ凄まじいことになっているかは周囲の状況で見て取れた。
「巨匠が……押されている?」
 明らかに巨匠の方が不利だった。ラドゥラスクは手数が多い上に魔力の量も桁違いだ。しかし、彼女には決定打がないのか、巨匠を倒すに至っていない。巨匠はそんなラドゥラスクの攻撃を防ぐのか精一杯でとても反撃に転じられる状況ではない。
「むっ!」
 不意にラドゥラスクが距離を取った。それまで圧倒的に優勢だったラドゥラスクだが、何か考えがあるのだろうか。巨匠はそれを追う形で距離を詰めたが、すぐに思い止まってその場で足を止めた。先程までの魔術は形を潜め、辺りには静寂が訪れた。
「……あの時を思い出すわね。いいの、そこの人形に頼らなくて?」
「あの時とは話が違う。今はお前が憎くはない……」
 巨匠とラドゥラスクの、数百年を苦悩し続けた二つの瞳が交錯した。二人の姿が再び重なった。今度は先に動いたのは巨匠だった。巨匠は無数の光を発し、ラドゥラスクの闇を打ち消そうとした。それに対して今度はラドゥラスクが防御に回る。闇から溢れ出た無数の腕が逆に巨匠の光を飲み込もうと藻掻いた。
「何故あの時狂った、ラドゥラスク!」
 巨匠の血を吐くような叫びが聞こえる。そう、全てはラドゥラスクの狂気から始まったのだ。巨匠が闇に心を閉ざしたのも、全てはそれが始まりだった。ラドゥラスクは少し、目を伏せた。
「何でだったかしらねぇ。確か……裏切られたのよ、こっぴどくね。あたしの力を恐れる奴らが、あたしを陥れようとしたのよ、何度も何度も」
 ラドゥラスクが巨匠の隙をついて闇の腕を伸ばした。それは巨匠の耳先を掠めたが、巨匠は大して気にしなかった。
「あんたと同じよ……ただ、私とあんたの違いは、あんたの妻みたいな人が現れなかったって事かしらね?」
 自嘲気味に笑い、ラドゥラスクは自らの腕に闇をまとわりつかせた。巨大になった腕を巨匠目掛けて振るう。それは寸分違わず巨匠の肩を引き裂いた。巨匠の身体が一瞬傾いた。
「ぐぅ……ラドゥラスク。お前は……私と――」
 巨匠が言葉を終える前に両手を前に突き出した。それは完全に防御を捨てた構えだった。ラドゥラスクもそれが分かっているらしく、防御せずに攻撃に移った。
 再び激しい閃光がその場にいた者の視界を奪い、それが止むと同時に今度は水を打ったように静まり返った。
 光の反動だろうか、周囲は恐ろしく暗い。アズレセアとドゥルクレンは光が止んだのを確認すると、今まで戦いのあった場所へと急いだ。
 花畑の中心には巨匠が倒れていた。それはまるで花に抱かれているようであった。二人は戦いの最中であっても、花を焼き尽くすことはしなかったのだ。アズレセアとドゥルクレンが巨匠に駆け寄った。
「巨匠!」
 二種類の声音が巨匠の頭上で響き合う。自分を呼ぶ声に巨匠が薄目を開けた。
「青玉の姫に……ドゥルクレン、か」
「巨匠! しっかりして下さい!」
 ドゥルクレンが巨匠を抱き起こし、手当をしようとするが巨匠はそれを手で制した。静かに首を振り、満足そうに笑みまで浮かべた。      
「良い……これでいいのだ。」
 巨匠は譫言のように呟いた。
「私は……ずっとこうなることを望んでいたのだ、恐らくな……。あれが死んだ時に、私は私の中の怒りも憎しみも愛情も、全てを抱いたまま死すべきだったのだ……。私はそれをずるずると引きずってここまで来てしまった。済まなかったな……青玉の姫、いやアズレセア殿よ。ドゥルクレン……後は頼む」
 それきり巨匠は動かなくなり、アズレセアとドゥルクレンはお互いに言葉もないままその場に頽れていた。
「――!」
 その時、背後に強い気配を感じたドゥルクレンは振り返った。そこには相変わらず闇を纏ったラドゥラスクの姿があった。ただし、その姿は幽鬼のように儚い。巨匠との戦いで確実にその力を失っているのだ。
「……逝ったのね」
「貴様が殺したのだろう」
 ドゥルクレンが震える拳を何とか押さえつけながら立ち上がった。アズレセアも慌てて立ち上がった。
「待って下さい! もう……もうこんなことはやめにしましょう。巨匠も亡くなった今、ラドゥラスク、あなたの復讐はもう終わったのです!」
「復讐……そうね。終わったことになるのね。でもね、アズレセアちゃん。まだあなたの復讐は終わってないのよ」
「え?」
 驚くアズレセアにラドゥラスクは酷く淡泊に答えた。
「キュリアベルに吸収されて失った力……あたしがどこから補充したと思う?」
 ラドゥラスクが軽く手を振ると、闇の泉から無数の腕が現れる。
「この腕……誰の物だと思う?」
 ラドゥラスクの言葉にアズレセアの顔色が変わった。
「まさか!」
「そう、そのまさかよ。こいつら全部、私が喰ったあなたの家族達よ」
言われてアズレセアは目の前が真っ暗になった。ドゥルクレンから話を聞いてラドゥラスクに操られているとは聞いていたが、ラドゥラスクに喰われていたなんて。アズレセアは激しくなった動悸を抑える事が出来ず、その場に膝を突いた。
「ラドゥラスク……貴様」
 ドゥルクレンが前に出た。その左眼には青玉、右手には赤玉が握られている。
「私があげた赤玉……まだ持っていたのね」
「言いたいことはそれだけか」
 ドゥルクレンが躊躇うことなく右手の赤玉を翳した。赤玉に蓄えられていた魔力がラドゥラスクに襲いかかる。が、ラドゥラスクは涼しい顔でそれを受け止める。
「無駄よ……。私の作った赤玉では私は殺せない。人形、来るのならヒュアルスの遺した青玉を使いなさい。それ以外で私を倒す術はないわよ」
 言うと、ラドゥラスクは闇の腕をまとわりつかせてドゥルクレンに襲いかかった。ドゥルクレンは左眼の青玉に触れ、ラドゥラスクに突っ込んでいった。
 一瞬の攻防の後、ラドゥラスクは軽く笑ってドゥルクレンに向き直った。
「さすがに上手いものね……」
 言うラドゥラスクの胸にはぽっかりと穴が空いていた。ドゥルクレンの手には黒い宝玉と白い宝玉が握られていた。
「……何かを奪うというのは、長年やってきたことですからね」
 言ったドゥルクレンの左腕がごとりと落ちた。続いてドゥルクレンの胸元が破裂したように弾け、ドゥルクレンはその場にどおっと倒れた。ドゥルクレンはそのままぴくりとも動かなくなった。
「……ヒュアルスの魔力を持っていたとは言え、この私の心臓部を持っていくんだから、なかなかね」
 独語し、ラドゥラスクはアズレセアを見やった。その瞳には既に狂気の色はどこにもない。初代ラドゥラスクの呪縛から完全に逃れたのだろうか。彼女はアズレセアに近付いた。
「私が憎い?」
 問うラドゥラスクにアズレセアは躊躇いながらも頷いてしまった。ラドゥラスクは微笑する。
「そう」
 短く呟いたラドゥラスクの身体から闇がずるりと落ちた。それは彼女の足下に汚い水溜まりを作ったかと思うと、地面に付くや否や消えていった。
「確かに……怒りに我を忘れていたとは言え、私のしたことは憎まれるべき事よ。弁解はしないわ。恨めばいい……誹ればいい……でも、それに、囚われて、先に、進めない、ようだと、私、達と、同じ、よ……」
 段々と緩慢になっていくラドゥラスクを見つめながら、アズレセアは言いようのない哀しさを覚えた。ラドゥラスクはゆっくりとした動作で倒れると、そのまま彼女を取り巻いていた闇と同様に跡形もなく消え失せた。物足りない程あっさりとした最期だった。結局ラドゥラスクもこの因果を断ち切りたかったのだろう。そしてその最後の機会が自分だったのだ。
 アズレセアは400年もの間、愛情と憎悪に支配された哀れな因果を思い、知らず涙を零していた。
「う……ぅ……」
 呻き声が聞こえる。ドゥルクレンだ。満身創痍で瀕死の重傷だが、まだ彼は生きている。アズレセアは駆け寄って抱き起こした。
「ドゥルクレン!」
 アズレセアの呼びかけに、ドゥルクレンは弱々しく答えた。
「アズ……レセア……様。ご無事、でしたか……。ふ、ふふ……。やはり、ラドゥ……ラスクは、強いですね」
「しっかりして下さい! あなたは勝ったのですよ!」
 ドゥルクレンは微かに首を振った。
「違いますよ……。最後の瞬間……ラドゥラスクは、自ら……自ら胸を、開きました……。本当に、私を、倒す、つもりなら……幾らでも……出来た……はず」
 ドゥルクレンの言葉が段々と途切れ途切れになっていく。崩壊は近かった。
「ドゥルクレン! しっかりして下さい! あなたまで死んでしまったらどうするのですか!」
「もう……終わったのです。全てが……。アズレセア様……お行きなさい。もう……あなたを、阻む、ものは……何も、ない……」
 ドゥルクレンは言い残し、完全に全身の力が抜けた。最期まで握っていた赤玉と白玉がころりと手から零れ落ちた。

 アズレセアが意を決して立ち上がった時、長かった夜が終わり、新たな朝がやってきた。

 森の館での長い長い数日間は終わりを告げ、夜明けと共に王都に戻ったアズレセアを迎えたのは主を無くしたかつての自宅だけであった。たった数日の間にすっかり荒廃してしまった我が家、何が起こったのか彼女は既に知っていた。その覚悟もあったし、受け入れようとも思っていた。実際にその光景を見るまでは。
 やはり夢ではなかったのだ、質の悪い悪戯でもなかったのだ。アズレセアは暫くの間呆然とそれを見上げていたが、やがて意を決したように一歩前に踏み出し、家の中へと足を踏み入れた。
 内部は意外と綺麗に残されており、取り立てて争った形跡などは見られなかった。そこにまたラドゥラスクの魔力の強さを感じたが、既にラドゥラスクはもういない。あの後がどうなったのか彼女には知る由もなかったが、ドゥルクレンの最後の言葉通りに受け取るならばあのラドゥラスクはこちら側とはかけ離れた世界に取り残され、もう現れる事はないらしい。
 彼女はそっと自分の部屋だった場所に入ってみた。そこは彼女がつい先日部屋を出て行ったきりのような状態で残っており、たたずんでいると懐かしさが込み上げてきた。と同時に、彼女の頬に一筋の涙が伝い、床を小さく濡らした。
 アズレセアは両膝を付き、両手で顔を覆い、暫く肩を震わせた。それから大きな声で泣いた。カールも、父も、エスも、自分の為に犠牲になった人たちの分まで泣いた。そして涙が尽きかけた頃、アズレセアは赤い目を擦り、ゆっくりと立ち上がる。多少ふらついてはいたが、決して生気のない動きではない。寧ろ逆で、今のアズレセアには生きようとする意志があった。
 立ち上がったアズレセアは一度だけ自分が使っていたベッドを見やったが、それきり何にも目をくれることなく、家を後にした。彼女は決して振り返る事なく、また二度と家に戻ることもなかった。

「これ頂けるかしら?」
 最近よく来てくれる老婦人が彼女に話しかけてきた。彼女ははいと大きな声で返事して、老婦人から売り物の花を受け取った。軽くリボンを付け、代金と引き替えに老婦人に手渡した。勿論、手渡す際の笑顔も忘れない。老婦人はそんな彼女の態度を気に入ってくれているのか、素敵な笑顔で会釈してくれて「また来るわ」と彼女の前を過ぎていった。
 花を売るこの仕事に就いてからもう2年が過ぎようとしていた。今では、あの森の館での数日間は夢ではなかったかと思うぐらい、平凡で穏やかな日々が続いている。王都にはあれから一度も怪人による誘拐事件は起こらず、人々の間から忘れ去られようとしていた。しかし、それらの事が夢でも幻でもなく、紛れもない現実であることは彼女自身の今の状態が告げていた。
 恋人を亡くし、婚約者を亡くし、家族を亡くし、友人を亡くした。家も地位も財産も全て。はっきり言って失ったものはあまりにも多く、そして大きかった。恐らくその傷は一生彼女が背負い続けていかなければならないものなのだろう。だが、彼女はそれらを失う代わりに、自分の力で生きていく強さを手に入れた。彼女が今こうして元気に暮らしていけるのも、その強さのお陰だ。哀しい人々の遺した一握りの想いが、彼女に明日を生きる勇気と力を与えてくれているのだ。
「失礼、この薔薇を頂けますか?」
 感傷に浸っていた彼女は、突然の来客に思考を一時中断した。不意に薔薇を指差され、視線はそれに注がれた。これは普段の彼女ならば絶対にないことなのだが、あまりに慌てていたもので彼女はこの時客の顔を見るのを忘れていた。
「薔薇ですね、ちょっとお待ち下さい」
「今日一番の物をお願いします」
 客の注文は更に続く。これにまたも慌てた彼女は薔薇選びに夢中になり、客がどんな人物なのか注意を払わなかった。結局、彼女は慣れた仕草で一本の薔薇を取り出し、それを代金と共に客に手渡すまで、客を一度も見なかったことになる。
「どうぞ……あっ!」
 どうも彼女はいつもの調子が出ないようだった。薔薇を手渡そうと顔を上げた瞬間、彼女の手から貰ったばかりの代金は零れ落ち、軽い金属音を響かせながら地面に散らばった。
「す、すいません!」
 もう完全に慌ててしまった彼女は、結局最後まで客の顔を見ることなく終わってしまった。しかも彼女が代金を拾っている間に既に客は立ち去っていた。何とか全てのお金を拾い上げ、彼女はようやく顔を上げた。
 せめて最後の挨拶くらいは……と彼女は店の前まで顔を出した。
「ありが……あれ?」
 しかし、見渡せど薔薇を持っている人物はいない。彼女が足の速い客だなと思って首を傾げながら店に戻ろうとした時だった。
「……!」
 視界の端に黒い影が映った。ほんの一瞬だったが、確かにそれは赤っぽい黒のタキシードだったような気がする。彼女は普段とは別人のような素速い動きで振り返った。
 が、既にそこにそのような人物はいない。彼女はまさかと思い、彼が消えた方向に駆け出そうとしたが、丁度その時運が良いのか悪いのか、客が店にやってきて彼女を呼ぶのだった。お陰で彼女はそれ以上確かめに行くことが出来ず、仕方なく店に戻った。
 そうして暫く仕事を続けている内に、きっと見間違いだと彼女は自分で納得して、それ以上確かめるようなことはしなかった。彼女はじっと空を見上げ、良い天気だと思った。そしてこの天気がずっと続けばいいと心の底から思った。

 人気のない路地裏。そこには紳士が立っている。およそ場違いな場所に佇む紳士は赤っぽい黒のタキシードに身を包み、シルクハットを目深に被っている。顔は見えない。手には見事な薔薇が一輪握られており、彼はそれを顔に近付けて呟いた。
「……見事な薔薇です。さすがですね……」
 それ以上の呟きは風によって掻き消され、それに続いて紳士も消えた。

漆黒の闇には明るい満月。月光だけの町並みは、酷く薄暗いが美しく感じるのだから不思議なものだ。
「さて、参るとしましょう」
 人気のない路地裏、男は軽やかに立ち上がり傍らの少女に声をかけた。あまり表情を変えない少女は無言のまま男の言うことに従った。
「今度の奴の居場所は遠方です。この町とは暫くの間、離れることになるでしょうが」
宜しいですか、と少女に尋ねようとした彼だったが、少女の気持ちが既に決まっていることを思い出し、それ以上言葉を続けるのを止めた。
 男はそのまま歩き始めたが、そのときになってようやく少女が口を開いた。
「……嬉しそうですね」
 男が振り返る。逆光で表情は見えない。少女はそんなことには構わず、異様に深い色を持つ瞳を男に向けた。男は軽く肩を竦め、少女に近づいた。
「……やはり分かりますか?」
 少女は目を閉じ、男から少し離れた。
「……これでも長い付き合いですから」
「……そうですね」
 答える男を見ずに少女はぼそりと呟いた。
「……それに、私もそうですから」
 少女の呟きが聞こえたのか、そうでないのか、男はそれには答えずに歩き出した。
「さて……早く向かわねば夜が明けてしまいますね。あまり遅くなってはまた大婆殿に小言を貰ってしまいますからね。参りましょう」
 少女は軽く頷き、男の後に続いた。いつものように男に尋ねるのを忘れない。
「ところで……」
 少女は小走りに男に追いついた。
「……こんなにも貴方が愛しいのに、という言葉をご存じですか?」

                                   了
超蜜柑先生の次回作『世紀末ラドゥハンター・ドゥルクレン』にご期待下さい。

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