2003年度第一期リレー小説
非普
「The Tale of the Casket」第24回
静寂。
暗い水面は凪いだまま。
風が草木を揺する音も、虫の音もない。
音という音が死に絶えたような世界、老婆はひっそりと泉のほとりにたたずんでいた。
泉はこの世界と人が住む世界との接点のような場所だ。
ここではその境界の壁は限りなく薄く、それゆえ、ある呪法を用いればあちらの世界をのぞき見ることが出来る。老婆は、数十年来使ったことのなかったその呪法を使おうとしていた。
しかし、それは突然のドゥルクレンの来訪によって破られた。
通常、老婆やドゥルクレンといった巨匠の作品は、あちらの世界に渡るのに自分専用の道を持っている。それぞれの存在に合わせて、空間を越える際に生じる矛盾を最小限に抑えるための道である。その道は王都郊外の森につながっていて、よほどのことが起こらない限りはその道を使って行き来しなければならない。
しかし、その、よほどのことが起きてしまった。
大魔女ラドゥラスクの復活。それは予測しえたかもしれない事ではあったが、あまりにも唐突だった。
この泉を門として世界間を移動するのは、いくら泉が境界が薄いところだとはいえ、世界に歪をもたらす。そんなリスクを負ってまでこの泉を使わなければいけなかったということは、彼はよほど危ない状態だったのだろう。
軽く息をついて、老婆はドゥルクレンが走り去った方向を見やった。
彼は今、館へと向かっている。
館には青玉の姫がいる。
そして、必ず巨匠は彼女を迎えに来るはずだ。巨匠が今どこにいるのかは分からないが、この世界の主たる彼にとって、空間を隔てる壁などないに等しいに違いない。
そして――
老婆は星のない空を見上げる。
何かに導かれるように、全てが破滅へと突き進んでいく。
人知を超えた流れ。人ならばその存在すら感覚し得ない何かの切れはしを、数百年の生の末に、老婆は確かに感じ取っていた。
それは、人が「運命」と呼ぶもの。あらゆる事象の根底を流れるもの。
「……愚かな」
そう老婆は独りごちる。
その果てには……何も残らない。何もかもが救われない。
「しかし、青玉の姫……」
彼女であるべくもなかった。数百年にわたる、この腐りきった因果を断ち切るのが、ただの一人の少女であるはずもなかった。ただ、しかし――
突如、眩暈が老婆を襲った。
時間か、と老婆は呟いた。
ドゥルクレンに渡した、赤い宝玉。それは老婆の生の源。由来は知れないが、数百年もの間老婆を生かし続けてなお余りある量の魔力が、その宝玉には込められていた。
その動力源を失った今、老婆はその魔力の残りカスで動いているに過ぎない。しかし、それも限界だった。もはや指一本すら動かない。
最後に、老婆は自分自身のことを考えた。
老婆はただ、自分が巨匠の作品であるということに忠実でありたかった。人形というものは、ただただ主人に従うだけの存在。それ以上でも、以下でもない。
そんな自分が、勝手に自分で命を投げ出した。それが、巨匠のためになるのだと信じて疑わずに。
老婆は自嘲する。我が身のなんと滑稽なことか
「ドゥルクレンよ……巨匠を頼みましたぞ……」
その呟きはもはや言葉にならず、夜の闇に溶けて消えていった。
老婆は最後まで気付かなかった。
老婆の巨匠への想いは、人形としての忠誠心以上に、母の、子に対する情に近いものだったのだと。
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