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2003年度第一期リレー小説   空色水母

「The Tale of the Casket」(仮:これはどうなんでしょう……)第18回 



 初めて会ったとき、彼女は踊っていた。
 中庭で、互いに競うように咲き乱れる色とりどりの花たちに負けず劣らず、彼女は美しかった。まるで、彼女がいるその場所にだけ、神が祝福の光を降らせているかのように。
 少なくとも、灰色の日々に埋もれながら眼光だけは鋭く、死に物狂いで毎日を生きている彼にとって、彼女の姿は現実離れした輝きを放っているように見えた。
 とても鮮やかで、眩しくて、……彼は胸の奥から鈍い痛みがじんわりと広がってくるのを感じた。
 ……ここにいてはいけない。ここからすぐに離れなければ。
 半ば逃げるように身を翻して走り出そうとする彼の存在に、そのときになってようやく気づいた彼女は躊躇うことなく声をかけた。
「ねぇ、少しお話をしたいのだけれど?」
 彼は、体をぴくっと震わせ、ゆっくりと彼女のほうを振り返る。彼女は、そんな彼の様子もお構いなしに話を続けた。
「あなた……魔術師さんでしょ。昨日、王様の隣にいた?」
 彼は、びくっとした。
 昨晩は、盛大な宴が催された。隣国の使節団をもてなすためだ。彼女は、そのために呼ばれた踊り子の一人だった。
 彼は、そういう騒がしいものには興味がなかった。人が踊るのも、人が歌うのも楽器を奏でるのも。人間に対する嫌悪感は、どうしようもなかった。
 しかし、彼女が踊り始めたとき……。彼は、彼女に、みとれてしまったのだ。彼女の、その凛とした存在に……。
 彼は、すぐに目をきつく閉じた。彼女が退場するまでそれが開かれることはなかった。
「ねぇ、お花を出したりもできるの?」
「……あぁ」
 ずっと黙ったままでいるのもまずいと思ったか、彼は短く答えた。そのとき、ちらっと彼女の顔を見た。きれいな青い目をしていた。
 彼女は、しばらく彼の顔を興味深そうに覗き込んでいたが、おもむろに手を伸ばすと、人差し指で彼の眉間に触れた。あまりに自然な動作だったので、よけられなかった。
「ここ。……しわ寄ってる。昨日も難しい顔してずっと目を閉じてたでしょう?
 せっかくの美男子が台無しよ」
 怪訝な顔をする彼に、彼女は、にっこりと微笑んだ。

 それから二人は毎日会うようになった。彼女は、しばらくこの町に滞在すると言った。
 彼は、混乱していた。
 周りの人間は、みな彼を恐れていた。表面上はどうであれ、心の中では、あるいは彼のいないところでは、人々は彼を恐れ、嫌い、……蔑んでいた。人間ではない、悪魔だと。それほど、彼の力は強大だった。彼の地位を妬む者も多く、心の休まるときはなかった。
 ところがどうだ、彼女はそんなことは全く気にしないというような顔で彼にまとわりついてくる。さも楽しそうに、とりとめもないことを話しかけてくる。そして、彼に花のような笑顔を向けてくる。
 彼は彼女といるときも相変わらずぶすっとしていたが、内心はかつてないほど穏やかだった。心は温かいもので満たされ、彼女のことを好ましく思う自分をだんだんと微笑ましく感じるようになっていった。
 その一方で、彼は彼女を疑っていた。彼女は自分を陥れようとしているのではないか。彼女に心を許し背中を向けたとたんに、自分の背中に刃を突き立てるのではないか、と。あるいは、心の底で彼女に惹かれていく自分を嘲笑っているのではないか。人の形をした悪魔がどんなものなのか、好奇心から近づいてみただけなのではないか、と。

 彼の中で彼女の存在が大きくなっていくのにつれて、彼は、胸の奥から暗く冷たいものがひたひたと広がってくるのを感じた。それは、今にも彼を飲み込みそうだった。
 彼は、不安定になっていった。

 彼女は、しゃがんで花を摘んでいた。スカートの裾が草花にたまった夜露を吸って濡れる。空には冷たく光る月が懸かっている。
 彼女の澄んだ歌声が、後ろにいる彼にも小さく聞こえてくる。
 彼は、彼女に向かってゆっくりと両手を伸ばす。
 彼女は気づかない。
 彼は、彼女の細い首に手をかける。
 彼女は、はっと息をのむ。
 彼は、ゆっくりと手に力を込める。
 彼女はひどく震えていた……。
「……おまえもあいつらと一緒なんだろう。私を嫌っているのだろう? 陰で笑ってるんだろう? こんなに私の中に踏み込んでおいて、平気な顔して離れていくんだろう! おまえなんか、私の手にかかればこんなに簡単に死ぬのにっ!」
 誰かが、何の目的もなく自分に近づいてくるわけがない。自分に笑いかけるわけがない。彼の叫びは悲鳴に近かった。その言葉とは裏腹に、彼は必死で人の温もりを求めていた。
 彼女は動かない。聞こえるのは彼の息遣いだけ。やがてそれも聞こえなくなると、ひんやりと湿った沈黙が二人を包んだ。
「……ねぇ、あなたの手、とても冷たい」
 しばらくして、彼女は前を向いたまま歌うように言葉をつむいだ。
 彼はそれには答えずに、ぼうっと彼女の白い首筋を見ていた。まるでそこにすべての答が書いてあるかのように……。
「ねぇ、わたしは? あなたが触れているわたしは? ……温かいでしょう?」
 彼女は、彼の手の上に自分の手を重ね、ゆっくりと彼を振り返った。彼の手にはもう、力は込められていなかった。
 彼女は、冷たい月の光の下で、静かに微笑んだ。
 彼は、その光景を見て、ただ、とても美しいと思った。
「あなた、震えてる……。わたしは、ここにいる。ずっと、あなたのそばにいる……。だから、ねぇ……、泣かないで」
 彼の頬を幾筋もの涙が伝っていった。震えていたのは彼のほうだったのだ。
 嗚咽はだんだんと大きくなり、やがて、彼は声を上げて子供のように泣き始めた。そんな彼を、彼女は優しく抱きとめていた。
 彼は、胸の奥の一番深いところにまで彼女の温もりが染み入っていくのを感じた。
 ……その瞬間、彼の中で彼女以外のすべての人間は意味をなくした。
 彼女さえいれば、それでいい……。
 夜は、ひっそりと二人を見守っていた。

 アズレセアは、泣いていた。
 夢の中で、あるときは彼に、またあるときには彼女になりながら、彼の彼女に対する思いの強さを感じた。しばらくの後ではあるけれど、必ず訪れる別れを予感して、泣いた。
 彼が感じた絶望は一体どれほどのものであったのだろうか……。
 アズレセアは、ぼうっと前を見た。
 今まで気づかなかったが、鏡があるらしい。遠くにいるもう一人のアズレセアが音もなく近づいてきた。鏡の中のもうひとりのアズレセアは青い目をしていた。青い目。
 ……ちがう。
 アズレセアは、夢の中で首を横に振った。まるで、子供がいやいやをするように。
 私はあなたじゃない……。
 もうひとりのアズレセアは口を開くことなく、ただ悲しそうな、それでいて温かい微笑を浮かべて頷いた。
 アズレセアは安心し、もうひとりのアズレセアが体の前に突き出した右の手のひらに自分の左手のひらを合わせた。
『あの人を……あのお馬鹿さんを助けてあげて』
 アズレセアはにっこりと微笑んだ。

 そこで、アズレセアの意識は加速度的に覚醒する。

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